プロ向け洋菓子の講師だった大川吉美は、ひょんなことからチョコレートの卸専門店を立ち上げる。紆余曲折を経ながら、ナタデココやスイートポテトで天国と地獄を味わい、何度か倒産寸前までいく。メーカーになりたい、と思っていた大川が巡り会ったのがラスクだった。商品名、パッケージデザイン、店舗立地、通販などのマーケティング戦略が功を奏して、東京ラスクは成長軌道に乗った。

チョコレート菓子の講師から
年商6億の菓子卸専門店へ

グランバー大川吉美社長

 大川吉美は、1955(昭和30)年に静岡県・伊豆の老舗和菓子屋の4代目の長男として生まれた。「これからは洋菓子の時代」だというので、東京・浅草の「ミカワヤ洋菓子店」で修行、夜は東京高等製菓学校へ通った。洋菓子作りはとても楽しい仕事だった。

 次にチョコレートを勉強したいと、日本のチョコレート専門店の草分けともいえる目白の「グリム」に入店。そこでの修行の後、本場のスイスまで2ヵ月間勉強に行った。ケーキ、アイスクリーム、チョコレートができるようになったので、そろそろ故郷に帰り、家業の4代目を継ごうかと思っていた27歳のときだった。

 世間でトリュフが大流行した。しかしトリュフが作れる職人はそうそういない。ことに地方のお菓子屋さんにはいなかった。そこで、スイスで勉強してきたという大川に白羽の矢が立ったのである。チョコレート作りの講師として地方のお菓子屋さんから引っ張りだこになった。教える相手は先方の職長クラスだったから、相手も忙しく、なかなか技術が伝えられなかった。

 そんなとき、福島のお菓子屋さんの社長が大川の家に遊びに来た。当時、大川の自宅にはお菓子研究のための工房があった。その工房を見た社長は大川に言った。

「チョコレートを作って、うちに卸してくれないか」

 大川はアルバイトのようなつもりでその仕事を引き受けた。1ヵ月20万~30万円の仕事だったが、バレンタインデーのときには300万円もの注文がきて、徹夜で仕上げたこともあった。この話を別のお菓子屋さんにすると、「うちにも卸してくれ」と言う。チョコレートは高級菓子だったので、どこでも置きたがった。そんな先が増えてきて、売上が1億5000万円くらいの規模になった。