これを紹介して伊藤は「銀行屋も楽じゃないねぇ」と注釈をつけている。

 樋口は天皇といわれた堀田庄三の秘書役だった。その後、アサヒビールに移り、社長、会長を歴任する。

 私が初めて会ったのは、樋口が社長になってまもなくで、私は当時、樋口の古巣の住友銀行のドン・磯田一郎を痛烈に批判した一文を『プレジデント』に書いており、けっこう緊迫した出会いだった。

 ただ、樋口独特の気さくさで、すぐに打ちとけ、京大の学生時代、樋口が長崎市長をやった本島等と同期で一緒にカトリック学生連盟の活動をしていたことなどを聞いた。

 その後何度か会ったが、一番驚いたのは1997年夏、樋口が理事長だった財界フォーラムに呼ばれて講演した時である。

「どうして、サタカなんか呼んだんだ」と後から樋口はいろいろ言われたらしいが、私は銀行批判や大蔵批判を激しくやり、大人のワッペンである勲章などもらってはダメだと結んだ。

 すると樋口は司会者として、「人斬り稼業だとかいろいろ言っておりますけれども、彼の表現をもってすれば、あらまほしき評論家の一人だと私は思っています」と言ったのである。

 思わず私は、「本気ですか(笑)」と聞き返した。

「いや、ホンマ、ホンマ、この一徹さは一服の清涼剤というか、自分では過激でも何でもないと言っておられるけれども、非常にすばらしいものがある。実は、私も勲章の内示をたびたび受けて、迷っておったんですけれども、今やめようと思いました(笑)。外国の勲章はもらうつもりでおります。これは断ると大変非礼になりますので」

 この発言にもビックリしたが、実は樋口の立場で勲章拒否はできないだろうと思っていた。しかし、それを貫いたのである。いろいろリアクションはあったようだが、立派である。その後、樋口は座長をしていた「日本と日本人の未来を描く」フォーラムで叙勲の廃止を提言した。

苦情は成長のもと

 樋口をまだあまり知らなかった時、ある雑誌で批判したら、樋口は私に直接電話をかけてきた。私の経験では、自分でストレートに釈明の電話をかけてきたのは、樋口と富士ゼロックスの会長だった小林陽太郎だけである。知り合いの新聞記者に頼んだり、媒体に圧力をかけて私の連載をつぶそうとしたりする経営者が多い中で、この2人の印象は強く、すがすがしい。