15年間で売上高七倍の霧島酒造は、
なぜ中規模都市から攻略したか

 麦焼酎「いいちこ」で有名な三和酒類を抜いて、2012年に焼酎業界で売上高第1位となった霧島酒造は、市場として博多を攻略したあと、同規模の広島と仙台をターゲットにし、首都圏や関西などの大消費地を後回しにして全国展開しました。

 大都市は強力なライバルが多い上に、販売管理費がかかるというリスクがあったからです(1998年の売上高は約82億円、2014年には約566億円と7倍へ拡大)。

「最初にたたくべき攻撃目標というのは、俗に言う『足下の敵』である。射程距離圏内にくっついている足下の敵というのがまず攻撃目標としては優先する。つまり、2位は3位をたたかなければだめだということになろう」(田岡信夫『ランチェスター販売戦略1 戦略入門』より)

 強力なライバルがいる場所から戦いを始めると、永久に一位になれません。初期の頼朝が、10倍の平家勢力が支配する伊豆で戦うことに固執したら滅亡していたでしょう。妻の政子を置いて房総半島に渡った頼朝は、自らが一位の影響力を発揮できる場所にあえて向かい、源氏勢力を巻き込み優位を確保してから反攻したのです。

 富士川の戦いに勝ったあと、頼朝が京都を目指した場合、平家に勝っても後白河法皇など朝廷の傘下に留まる地位となったはずです。京都で彼は突出した一強ではないからです。 頼朝は平家打倒の戦争でも一貫して鎌倉を離れず、勝利後は全国に武士の管理者(守護・地頭)を置いて影響力を高めて、武家による鎌倉幕府を開きます。

 先の『ランチェスター販売戦略1 戦略入門』は、「競争目標」と「攻撃目標」を分けるべきだと述べていますが、要は一位の会社を目指しながらも、攻撃するのは自社よりも下位の弱者であるべきということです。

 平家亡き後、京都の朝廷権力だった後白河法皇は、源氏勢力を分断するため義経らと結びますが、法皇は結局、頼朝の勢力には対抗できないと判断して、頼朝側に近づき義経を裏切ります。京都では、すでに頼朝側を支持する勢力が多数で、義経は兵略に優れながらも人望がなかったからです。

 後白河法皇と義経が本気で頼朝に対抗するならば、頼朝の支持者が少ない瀬戸内海か九州に共に移動してから挙兵、膨張すべきでした。彼らが京都で反旗を翻したことは、強力なナンバーワン企業がいるエリアに、弱小企業がいきなり挑むことに似ていたのです。

(第8回は4/8公開予定です)