各方面から絶賛されたストーリー仕立ての異色の経済書に、1冊分の続編が新たに加えられた『増補版 なぜ今、私たちは未来をこれほど不安に感じるのか?』が発売され、大きな話題を呼んでいます。
この連載では、多数のマンガ作品やヒット曲、名著をヒントに、「マイナス金利」「イスラム国と世界中のテロ事件」「中国バブルの崩壊」「アート作品の高騰」「少子高齢化」「アベノミクスの失敗」の全てが繋がり理解できる同書の一部を「続編」部分を含めて公開していきます。
今回は、主人公・絵玲奈がついにニューヨーク最大のオークションハウス、クリスティーズへ。現代アートの世界のバブル模様を目のあたりにすることになります。(太字は書籍でオリジナルの解説が加えられたキーワードですが、本記事では割愛しております。書籍版にてお楽しみください)
アートの商品価値と精神的価値
「ねえ、私はMoMAでもう充分だから、別行動でいい?」
結局、沙織は“アートを巡る旅”からは脱落して、小学校時代の友人に会いに行くことにした。
絵玲奈は1人でチェルシーに向かった。チェルシーには300軒ものギャラリーが軒を連ねている。ギャラリーは無料でだれでも自由に入れる。絵玲奈は、適当にいくつかのギャラリーをのぞいてみた。
正直なところ、アートの内容に関してはさっぱりわからなかったけれど、美術館に入っている作品とはレベルが違うことは、素人の絵玲奈でも感じられた。逆に言えば、やはり美術館に入ってる作品は、自分にはなんだかよくわからない抽象画であっても、やっぱり超一級品なんだと絵玲奈は思った。
絵玲奈の目的のガゴシアン・ギャラリーはギャラリーが軒を連ねる通りの一番奥にあって、他のギャラリーとは規模の違うひと際目立つ存在だ。
絵玲奈はガゴシアン・ギャラリーの扉を開けた。天井の高い美術館のような広々としたスペースに中国人の作家のZENG FANZHIの大作が数多く展示されている。
たしかに“帝国”って言われるわけだ……。そのスケールの大きさに絵玲奈は思った。そして教授との会話を思い起こした。
「ニューヨークのチェルシーというところにある、ガゴシアン・ギャラリーにも行ってみてくださいね」
「はい。ところで、ギャラリーってどういうものなんですか?」
「新人の才能のある作家を発掘して育てて、プロデュースするのがギャラリーです。プライマリーとも呼ばれます。
アート作品というものは、そもそも矛盾した存在です。それは、アート作品が精神的なものであると同時に経済的な商品でもあるからです。作家がアート作品を売らなければ純粋に精神的な物のままです。ギャラリーはアート作品に最初の経済的な価値付け、つまり値付けをして商品にして世に送り出します。そして、商品価値が上がるようにさまざまなキャンペーンをして、作家をプロデュースしていくわけです。
つまり、アート作品を精神的なものだけでなく、経済的な価値を持つ商品にする生みの親みたいな存在です」
「そのなかでガゴシアン・ギャラリーはどういう存在なんですか?」
「ガゴシアン・ギャラリーは現代アートにおいて最大規模を誇るギャラリーで、アートの世界でかつてないような帝国を築いています。
さきほど、現代アートがアメリカの覇権とつながっていることをお話ししましたよね。1989年に冷戦構造が崩壊して、アメリカの覇権が文字どおり確立しました。その結果、世界は1つになり、グローバリゼーションが本格化しました。グローバリゼーションにおいて、アメリカのルールが世界のスタンダードである、グローバル・スタンダードが確立していきます。アートの世界もグローバル化して、アメリカ型の市場メカニズムが世界を席巻していき、ニューヨークがパリに取って代わるのです。この流れに乗って現代アートの世界で大成功した1人が、ガゴシアン・ギャラリーのオーナーのラリー・ガゴシアンです」
「ラリー・ガゴシアンさんってどんな人なんですか?」
「すごいビジネスマンという評判ですね。神秘的で謎めいていて、話し相手を笑いもせずにじっと見つめるそうです。ニューヨークの批評家にサメと呼ばれて、同業のサーチ・ギャラリーのオーナーのチャールズ・サーチには、“ガゴシアンに近づくと、いつも人食いザメの映画『ジョーズ』のテーマ音楽が聴こえてくる”とずばり言われています」
「え~、チャールズ・サーチも、PR会社出身で、ダミアン・ハーストみたいな人をプロデュースしたすごいやり手だって言ってましたよね」
「そうですね。そういうやり手の人をもってしてもということでしょうね。実際、チャールズ・サーチが発掘したダミアン・ハーストはガゴシアンに引き抜かれて移籍しちゃいましたしね。ジェフ・クーンズもそうですが、ガゴシアンが他のギャラリーの作家を引き抜くことはよくあることのようですね」
「なるほど~、まさに人食いザメですね」
「一言で言えば、アートが好きというより、アートがおカネになることがよくわかっている人ということでしょう。アメリカ型の市場メカニズムがアートの世界を席捲した結果、ガゴシアンだけではなく金融業やPR会社、不動産業の出身といったビジネスをよく理解した人が、アート業界に参入するようになっていったわけです」
「アートの世界が、アートの専門家じゃなくて、ビジネスマンの世界になっちゃったわけですね」
「そのとおりです。ある意味、主と従が逆転したと言えるかもしれないですね。アートの本来の精神的価値を大切にする伝統的なギャラリストを駆逐して、どんどん経済的な商品にしていったということでしょう。
本当は、アートの持つ精神的価値と商品としての価値は等価でなければならないはずです。しかしビジネスマンたちは、アートの商品としての価値をどんどん大きくしてビジネスを拡大し、そして産業といってよいものにしていったわけです」
「アート産業というわけですね」
「はい、さきほど言ったように、アートが芸術的な価値から乖離して一人歩きを始め、まるで“色のついた株券”のようになっていくのです。そして現在においては“アート産業”ともいえる発展を遂げていったわけです」
「なるほどです」
「でも、もしそうだとしても、市場メカニズムがちゃんと働くなら、アートが本来持つ精神的価値を、商品としての価値がどこまでも超えていくことはなく、本当は限界があるはずなのです。100万円の精神的価値しかないものが1億円の商品だと言っても、だれも買わないはずだからです」
「でも、アートの精神的価値っていっても、それをおカネに直して評価するのは難しくないですか?」
「そのとおりです。市場で実際に買う人がいれば、その値段を正当な価値としていくしかありません。でも、買っている人が本当に価値があると考えて買っている人ならいいですが、そんなことはどうでもよくて将来も値上がりすることを期待して投機的に買っているだけかもしれません」
「本当の価値がよくわからないふわふわしたものですよね、アートって。そういう意味では、上がればもっと上がるみたいな気持ちになっちゃうかも」
「そういう意味では、ガゴシアンのようなやり手のビジネスマンが流行を創造すれば、アートをどんどん上がる“色のついた株券”にしていくことは難しくない話かもしれません。
現代アート全体の価値を上げるために、トップを走るアーティストの評価を上げていくことは業界全体の共通の利益です。現代アートのスターで世界的な億万長者でもあるジェフ・クーンズは一種のバロメーターで、彼の評価が危ぶまれたとき、ニューヨークのギャラリー街であるチェルシー地区がパニックになったそうです」
「つまり、ジェフ・クーンズの値段を上げれば、みんな上がるし、下がればみんな下がっちゃうみたいな話ですか?」
「そのとおりです。危ぶまれたジェフ・クーンズの評価を守ろうと、鐘や太鼓で盛り上げるような派手なPR作戦が行なわれました。2008年秋にヴェルサイユ宮殿で行なわれたクーンズの作品展はその頂点と言えるものです」
「なんだか、やっぱり本当の価値がよくわからないふわふわしたものですね」
「市場メカニズムがちゃんと機能するのを期待するのは無理があるでしょうね」
「ですよね」
「また、アートの市場は現物しかありませんから“カラ売り”ができません。これが市場メカニズムがうまく機能しない1つの大きな問題でしょうね」
「“カラ売り”ってなんですか?」
「現物を持たないで、売りから入って市場が下がったら買戻しをすることです。例えば御影さんが、1億円の作品に対して、どう考えても高すぎで、本当の価値は1000万円もないと思ったとするじゃないですか。そして、いずれその作品の値段が暴落するはずだと思えば、作品を借りてきて1億円で売って本当に1000万円に暴落したときに買い戻せばいいわけです」
「なるほど。高すぎると思えば売ればいいわけですね」
「株式市場のようなカラ売りができる市場は、上がり過ぎればカラ売りが上から降ってきますから、それなりの調整があるわけです。しかしながら、アートはその1点しかありませんから、株式のように借りてきて売るようなことはできません。よって、いくら上がっても実際の売りが出て来ない限りストップをかける要因に欠けるわけです」
「ということは、一方通行で上がることになるかもしれないってことですか?」
「そういうふうになる可能性はありますね。バブルになりやすい傾向があるといえるでしょう」
「なるほど……」
「さて、さきほどアートが産業化したと言いましたが、アートの制作方法も産業化しました。ガゴシアンのようなギャラリーに所属する現代アートのスター・アーティストたちは、もはや自分の手ですべてを作るような芸術家ではありません。さきほども言ったように100名以上のスタッフを抱え工房で作品を制作しています。それは、まるでルネサンス期に工房で作品を大量に作ったのと同じです」
「え~、そうなんですね。絵って画家の人が1人で全部描くもんだと思っていました」
「今や欧米の現代アート作家は映画の総監督みたいな感じなのです。コンセプトを出し、制作の割り振りを決めてという具合で、巨大なスタジオで流れ作業で制作が行なわれるのです。作家は最終の色校正をして、サインをするという具合です。
今、六本木ヒルズの森美術館でやっている村上隆の五百羅漢図展を、ニューヨークに行く前に見に行ってみてください。そういう制作の割り振りやスケジュールの管理などが展示されていて、どうやって現代アートが工房で作られているのかがよくわかりますよ。ちなみに、村上隆さんもガゴシアンの作家です」
「ヒルズに行って見てきます。でも、どうしてそんなに大量に作らなきゃいけないんですか?」
「そもそもは、前に言ったようにアンディ・ウォーホルが登場して、ヴァルター・ベンヤミンが『複製技術時代の芸術』という本を書いたように、シルクスクリーンのように複製印刷されたものにも価値を生むようにしていって豊かになったアメリカの大衆を市場にしていくところが大量生産の始まりなのですが、冷戦に勝ってアメリカの覇権が確立してアメリカが仕切る現代アートの市場が世界に大きく拡大したことが1つの理由です。グローバルにアメリカの現代アートの市場が拡大した結果、商品が不足してしまったのです」
「なるほど」
「いつも言う話ですが、何事にも需要サイドがあって、供給サイドがあるわけです。アメリカが生み出した現代アートが国際化することによって生まれた需要は、ある意味、供給サイドが生み出した需要です。そもそも、なぜ現代アートに膨大な需要が発生してきたのかは、ニューヨークから帰ってきてから考えることにしましょう」
狂乱のクリスティーズ
オークションハウスの最大手のクリスティーズのニューヨーク会場は、高級ブランド店の並ぶ5アベニューと6アベニューの間のロックフェラープラザにある。毎年30mにもおよぶ巨大なクリスマスツリーが設置され、その下には多くの映画に登場しているアイス・スケートリンクが開設される。ニューヨークの冬の風物詩だ。
クリスティーズの現代アートのオークションは2日にわたって行なわれ、1日目のイブニングセッションでは、目玉商品のオークションが行なわれる。
絵玲奈は教授に指定された時間にクリスティーズの入口に行った。正面玄関の前に、巨大な蜘蛛の彫刻が置いてあり、その前に教授は立っていた。
「教授、この蜘蛛の彫刻って六本木ヒルズにあるのと同じですよね?」
「そうですね。ルイーズ・ブルジョワさんの代表的な作品ですね。六本木ヒルズの小さいバージョンですね」
「ちなみに、これっていくらぐらいするんでしょうね?」
「さあ、どうでしょう。ヒルズの蜘蛛が30億円ぐらいらしいですから、10億円ぐらいはしそうですね」
「これが10億円……」
絵玲奈は驚愕した。
「これもオークションにかけられるのですか?」
「たぶんそうでしょう」
こんな大きな彫刻を買って、いったいどんなところに置くんだろう……。
中に入ると、ものすごい人混みだ。着飾った人も多くセレブの社交会場のような状況で、シャンパンやカクテルを運ぶボーイが行き交い、人々が談笑している。
「シャンパン?」
ボーイが絵玲奈に話しかけてきた。絵玲奈はおずおずとシャンパングラスを手にとった。絵玲奈はものすごく場違いなところにいる自分を感じた。
「我々はこっちですよ」
教授は多くの人が入っていく入口と違う入口を指さした。
「すいませんね。我々は、オークションのお客じゃないし見学させてもらう立場なので、座れないんですよ。立ち見でがまんしてください」
「いえいえ。とんでもない」
オークションの会場は、数百人は優に座れる大きさだ。天井からモビールがいくつもぶら下がっているのが見えた。
「あのモビールはなんですか?」
「あれは、アレクサンダー・カルダーですね。芸術作品としてのモビールの創始者です」
「え~、あれもオークションに出る作品なんですか?ちなみにあれっていくらぐらいするんですか?」
「う~ん、どうでしょうね……」
と言って、教授はオークションのカタログのページを繰った。そこには出展作品とオークションハウスの落札価格の予想が出ている。
「これによると400万ドルってなってますね」
「は?4億円以上ってことですか?」
モビールと言えばベビーベッドの上につるされているものしか知らない絵玲奈は驚愕した。
「カルダーのモビールは動く抽象画なんですよ」
会場の席が埋まり始めた。絵玲奈は、目の前の席に東洋系の自分とほとんど年の変わらない女の子が座っているのを見つけた。
“席に座っているってことは、こんな私と年の大して変わらない女の子がオークションのお客なんだ……。いったい何者なんだろう。上品な服装からして、お金持ちのお嬢様なんだろうけど……”
「教授。あの若い女の子って何者でしょうね?」
「さぁ、どうでしょう。でもきっと日本人じゃないでしょうね。たぶん中国人のお金持ちの娘さんか何かじゃないですか。中国のおカネは現代アートにすごく流入していますからね」
壇上に競売人が登場し、いよいよオークションが始まった。
「では、作品番号1番。アレクサンダー・カルダーの作品で『レッド クレセント ブルーポスト』です。50万ドルからスタートします」
壇上に電話でオークションに参加するテレホン・ビッドを受けるクリスティーズの営業マンが並び、一斉に手が挙がった。
「60万、70万。80万、90万、100万、110万」
10万ドル刻みであっという間に値上がりしていく。電話でビッドを受ける、一斉に挙がっていた手が徐々に降りていき、2人の買い手の競り合いとなった。
「190万ドル。どうですか。もう一声。トライ!」
競売人が壇上で場を仕切る姿はじつに面白い。競りが足踏み状態になると明るく会場を盛り上げ、再び値を上げさせる。
「200万!」
受話器を持つ営業マンが叫ぶ。
「200万どうですか?他にいらっしゃいませんか?では1番のアレクサンダー・カルダーは200万ドルで落札です!」
競売人は小さな木槌を叩き、一番目の入札を終えた。
絵玲奈は10万ドル刻みでぽんぽんと値段が上がる様に驚いた。1000万円以上の刻みがまるで1000円ぐらいの勢いで上がっていく。
「教授……すごいですね。1000万円がひと刻みだなんて……」
「そうですね。でも、もっと高額なものだと、100万ドル単位ですよ」
「まじですか……」
オークションはどんどん進んでいく。1000万単位のおカネが一単位で動く中にいると、金銭感覚がどんどんおかしくなっていく。
「15番。ルーチョ・フォンタナは2590万ドルで落札です!」
電光掲示板には、ドル、ユーロ、ポンド、スイスフラン、円などの主要通貨での価格が同時に表示される。31億8570万円……。
「教授、なんだかだんだん疲れてきました……」
「そうですね。そろそろ出ましょうか。立っているのもいいかげん疲れますしね」
「いかがでしたか」
オークション会場から出て、教授は絵玲奈に尋ねた。
「……見たこともない世界で、ホントびっくりです」
「いろいろと考えたことをまとめておいてください。日本に帰ってから、議論を整理していきましょう」