「世論の専制君主化」が進むなか、我々は来る東京都知事選で誰を選べばいいのか

 こんにちは。鈴木寛です。

 参議院選挙では野党も東北などで健闘しましたが、与党の圧勝で終わりました。18歳からの参政権が認められた初めての選挙でしたが、若者の投票率を見ると18歳は51.17%、19歳は39.66%で、18歳と19歳を合わせた投票率は45.4%でした。

説明責任を巡る
舛添氏とメディアの“ズレ”

 さて、現在メディアを賑わしているのは、14日からスタートした東京都知事選挙です。「違法性はないが不適切」という政治資金の一連の疑惑により、舛添要一前都知事が都議会に辞職願を出したのが6月15日。そこからおよそ2ヵ月間、東京都は知事不在のまま行政を執り行ってきたわけです。

 舛添前都知事が主張してきたように、政治資金の使途に違法性はありませんでした。それなのにここまで問題を追及された原因の1つに、メディアが要求する説明責任と舛添前都知事が果たそうとする説明責任にズレがあったことが挙げられます。

 メディアが求める説明責任は「謝罪」でした。一方、舛添前都知事が果たそうとした説明責任は「説明」でした。私はこの認識のズレが最終的に辞任という流れに発展していったのだと思っています。舛添側に立つのであれば、ディベートに勝ち、コミュニケーションに負けたという判断となるでしょう。言い方を変えれば、法律に勝ち、心理ゲームに負けたということです。「違法性はないが不適切」という表現は、ある意味で問題の本質を突いていると言えます。

 そして第一の権力である世論と対峙するには、法理ではなく、心理を学ばなければなりません。法の精神は「疑わしきは罰せず」ですが、心理は「疑わしきは罰する」に陥る傾向があります。心理的な判断で社会は動いていき、現在、世界中がその流れにあります。

 その結果、政治すら具体的な課題解決のためにあるのではなく、政治ショーとして記号消費の対象になってしまっているのです。

 ですから、政治家のみならず、企業経営に携わる人は、対マスコミ・世論を考えるときに、弁護士や会計士といった法的・事務的な顧問だけでなく、社会心理に精通したアナリスト、言うなればコミュニケーションオフィサーも必要だということです。法理だけでメディアと対峙すると“マスゾエる”ことになってしまう。これが一連の舛添事件の教訓ではないでしょうか。