近刊『日本会議 戦前回帰への情念』(集英社新書)が発売4日でたちまち重版・4万5000部突破の気鋭の戦史・紛争史研究の山崎雅弘による新連載です。日本の近現代史を世界からの視点を交えつつ「自慢」でも「自虐」でもない歴史として見つめ直します。『5つの戦争から読みとく日本近現代史』からそのエッセンスを紹介しています。第3回は三国干渉から、日本の国際的評価を高めた義和団事件収束、そして日露戦争への道を解説します。
三国干渉はロシアとの衝突の予兆だった
9ヵ月間にわたり繰り広げられた日清戦争は、新興国日本の存在感を国際社会に誇示する出来事であったのと同時に、日本政府と日本国民に、自国の「強さ」と「弱さ」の両方を思い知らせた事件でもありました。
日本の「強さ」とは、清国との戦争で日本軍が示した戦争遂行能力の高さであり、「弱さ」とは、戦後処理の過程で生じた遼東半島の返還要求(三国干渉)を、日本政府がなす術もなく受け入れさせられたという外交面での無力でした。
日本は「西洋のルール」をきちんと守って清国との戦争を行ったはずなのに、どうして欧州の列強は、理不尽な干渉をしてくるのか。それは、日本がまだ「二流の国」だと彼らに見くびられているからではないのか……。
戦場での連戦連勝にもかかわらず、戦後処理では部分的に「敗北」させられたことに、大きな屈辱感を覚えた日本国民は、これ以降「臥薪嘗胆(あえて自分を苦難に追い込むことで屈辱を忘れず鍛錬に励む態度を意味する故事)」を合言葉に、さらなる「強国」を目指して政府が打ち出した軍備増強政策を支持し、高くなった税金にも我慢して、政府の「富国強兵」政策に協力することになります。
一方、日清戦争における日本軍の勝利は、日本を取り巻く安全保障面での問題を根本的に解決することには繫がりませんでした。むしろ逆に、朝鮮半島をめぐる戦略的なゲームに、新たな「プレイヤー」を引き込むという予期せぬ結果をもたらすことになりました。
そのプレイヤーとは、北の巨大帝国ロシアです。
ロシアは、以前から極東方面において南への勢力拡大の機をうかがっており、日清戦争で日本・朝鮮・清国の勢力バランスが大きく揺らいだのを見て、「わが国が南方に進出するチャンスが到来した」と理解していました。
この時、清国と朝鮮もまた、それぞれ異なる理由で、ロシアの登場を「自国にとって好都合な出来事」だと捉えていました。
清国は、日清戦争の勝利で勢いに乗る日本が、本格的に朝鮮や満洲に進出してきたら困ると危惧し、ロシアが北から日本を牽制して、大陸への日本の影響力拡大を邪魔してくれたら大いに助かる、というふうに理解していました。
清国の政治を取り仕切る最高指導者・李鴻章は、1896年6月3日、ロシアのロバノフ外相と露清防敵相互援助条約(露清密約)を結び、満洲を横断する鉄道利権(ロシアのシベリア鉄道と極東最大の軍港ウラジオストクを結ぶ「東清鉄道」の敷設権)をロシアに譲渡して、日本がこの地方に進出しづらくなる状況を創り出しました。
義和団事件
── 欧米多国籍軍への初参加
そして、2年後の1898(明治三一)年3月27日には、日本が三国干渉で清国に返還した遼東半島の重要な港湾である、旅順および大連の二五年間の租借権と、そこから東清鉄道に通じる鉄道線(南支線)の敷設権が、清国からロシアへと手渡されました。その二年後に東アジアの国際関係を揺るがす大事件が発生します。
1900(明治三三)年2月、「扶清滅洋(清国政府を助け、外国勢力を滅ぼせ)」という、幕末日本の「尊皇攘夷(天皇を尊び、外国勢力を排撃する)」と似たスローガンを掲げる民族主義者の政治結社「義和団」が、清国の各地で欧米利権の排斥運動を開始し、同日には西太后ら清国首脳が北京を明け渡して西安と脱出しました。
義和団に対する多国籍軍の武力行使において、福島安正少将や柴五郎中佐などの日本軍将校は優れたリーダーシップを発揮し、軍事行動の流儀が少しずつ異なる列強の軍隊に、足並みを揃えさせる役割を担いました。前線で戦う日本軍の兵士も、列強の軍人に遜色ない働きを見せ、欧米列強の首脳は日本軍の統率力や軍事的能力を改めて評価しました。
結局、義和団の乱/北清事変は清国の敗北で幕を閉じ、多国籍軍の構成国は1901年9月7日に締結された講和条約に基づき、ただちに撤兵を開始することになりました。
ところが、満洲支配の既成事実を欲するロシアだけは、自国が権利を有する東清鉄道の線路が義和団に破壊された事実を挙げ、「同鉄道の建設修理事業を保護するため」という理由で撤兵に応じず、逆に満洲駐留部隊の規模を増大させるという行動に出ました。
実は、義和団事件が発生する直前の1899年5月にも、朝鮮半島南端の馬山浦にロシアの軍艦が現れ、朝鮮政府に同地の租借を要求する事件が発生していました。この要求は即座に拒絶されたものの、ロシアはなおも朝鮮の利権を求めて威嚇を繰り返しました。
こうしたロシアの行動は、数年後に日露戦争を引き起こす原因のひとつになります。