社名に込めた思い

 本格的に商売を始めようとすれば、社名が、すなわち商号が必要である。そこで塚本幸一の思い付いたのが“和江商事”だった。

 和江とは父粂次郎の雅号である。江州(滋賀県)出身だった粂次郎が、「江州に和す」という思いからつけたものだったが、戦友たちに仕事を手伝ってもらっていたこともあって、“ともに戦った揚子江の河岸で契りあった和”とも読めるところが気に入った。

 ここからの行動が幸一らしい。昭和21年(1946年)7月、なんと彼は模造紙に和江商事設立趣意書なるものを筆で書いて自宅の玄関に貼りだしたのだ。

 『ワコール50年史』によれば大要以下のようなものであったという。

――終戦以来道義地に落ち、人情紙の如く、復員者の益々白眼視されつつある現在、揚子江の滔々として絶ゆる事なく、悠々天地に和す。彼の江畔に契りを結びたる戦友相集り、明朗にして真に明るい日本の再建の一助たらんと、茲に、婦人洋装装身具卸商を設立す。

 後々まで塚本幸一という人物を特徴づけるものだが、本を読んでいないと言う割に書く文章はなかなかの名文なのだ。おまけに字が上手なので余計に内容が引き立つ。“道義地に落ち、人情紙の如く”というのは、派手な化粧をした女性が米兵と抱き合っていた護国寺の光景や法律などおかまいなしに本音がぶつかり合っていた闇市で彼が抱いた実感であった。そこで復員者を集め、婦人洋装装身具卸商として打って出ることを高らかに宣言したのである。

 (ひょっとしたら新聞がとりあげて記事にしてくれるかもしれん。そうすればええ宣伝になるやないか)

 という思惑もあった。

 ところが、その反響は嬉しくない形で表れる。

「失礼します。こちら和江商事さんですか?」

 張り紙をしてしばらくすると、身なりのきちっとした人がやってきた。すわ新しいお客さんかと最高の笑顔で迎えた幸一だったが、彼の出した名刺を見て一気に落胆する。

 税務署の係官だったのだ。商売をするなら税金を払えというわけである。

 敗戦時に2万人ほどだった税務署職員の数は、戦後になって驚くべきペースで急増していた。わずか3年後の昭和23年(1948年)には7万3607人というピークをつけている(『税大ジャーナル』第21号、今村千文、「税務署」の誕生)。彼らが日本人持ち前の勤勉さで徴税に駆け回るのだから、起業したての零細企業だった和江商事のところに現われても不思議ではない。

 正直に申告すれば儲けの半分は税金で持っていかれ、急成長は望めない。

 そこで幸一は信じられない交渉をする。

「これから商売やっていこうっていうとこに、ごっそり税金持って行かれたんではどもならんのですわ。どうでっしゃろ、1年目はきっちり決められた通り税金を納めさせてもらいます。そのかわり2年目はその倍、3年目はそのさらに倍ということで3年分の税額を今のうちに決めさせてください」

 つまり、それ以上儲かっても手を出さないでくれというわけだ。税務署の職員は、小さな会社が大きく出たものだと内心笑っていたが、それで手を打とうということになった。今では信じられないことだが、税収さえ増やせればよかったということだろうか。

 毎年倍々ゲーム以上に儲ければ、税金は割安ですむことになる。あとは必死に儲けるだけだ。

 模造真珠のネックレス以外にも竹ボタン、竹に刺繍張りのブローチ、金唐草革財布、ハンドバッグ、キセルなどを山と担ぎ、化粧品や装身具の小売店に飛び込んで売り歩いた。

 規制品以外を扱っていたから闇とは言えないが、こうしたものを男子一生の仕事にしようと考える者は少ない。

 最初は彼らも復員後の生活に困っていたから、幸一の呼び掛けにすがるような思いで集まってきてくれていたが、そのうちほかに仕事を見つけ、1人減り2人減りしていった。結局、復員兵中心の会社運営がまがりなりにもできていたのは、ほんの数ヵ月の間だけで、再び人手不足に陥った。

 幸一はこの時、25歳。当時で言えば十分結婚適齢期だ。

 相変わらずもてた。夏の盆踊り仮装大会で女装して特賞を取り、一躍町内中にその男前ぶりが知れ渡るともう大変だ。

 町内会長をしていた父親の手伝いをして米穀通帳の判押しをしていると、その日に限って近所の若い女性たちの来訪が増えたという。

 だが結婚する気はさらさらない。信の持ってきてくれた見合い話もことごとく断り、

「30までは絶対結婚しない。それまでに商売のめどをたてるから」

 そう言って、女性に目もくれず商売に邁進するはずだったのだが……。