3日で壊滅した、一木支隊の悲惨な戦い

 8月18日、ガダルカナル島に上陸した日本陸軍の一木支隊は後続部隊の到着を待たずに、わずか900名の軽装備兵力で、米軍の占領した飛行場の奪還に向かいます。

 しかし実際の米軍側海兵隊は1万人以上であり、予め日本軍の進路を予測して鉄条網や砲台を準備していました。猛烈な火砲の攻撃を受け、一木支隊は3日で全滅します(一木大佐は自決、部下の将兵もほとんどが壮烈な戦死を遂げた)。

 この無謀すぎる突撃と全滅は、日本陸軍はそれ以前に、アジア地域の戦線で夜襲に何度も勝利したこと、司令部が情報を軽視して自軍側の思い込み(米軍の本格的な反攻はもっと先だろう)により、敵を少数だと一木支隊に伝えていたことなど理由でした。

 その後、日本の増援部隊が段階的に上陸しますが、制空権、制海権を奪われており、大砲・食糧などの物資の8割が島まで届く前に撃沈され、大火力による効果的な攻撃ができず、大砲の支援のない歩兵による突撃攻撃をくり返して壊滅していきます。

 第2回の総攻撃では、前回撃退された敵の陣地と同じ場所を攻めるのではなく、敵の陣地を迂回すべきと師団長に意見した川口少将が罷免されます。結局第2回の総攻撃も失敗し、続々と増援が到着する米軍との大差がついていくことになります。

 弾薬や食糧の補給も日本軍は欠乏し、飢餓の島(ガ島)と呼ばれる地獄の状態が日本兵を襲いました。帰還した兵士の手記には、飢えや伝染病で亡くなる人が続出した、悲惨極まりない光景が描かれています(投入された日本側将兵、約3万2000人中、1万2500余人が戦死)。

 ガダルカナル島の戦いでは、「戦力の逐次投入」の愚かさも『失敗の本質』で指摘されました。問題の大きさを正しく把握せず、小出しに解決策を出して自滅していくことです。

 例えば、幅1キロの河を飛び越えるとき、最初にまず100メートルの射出機械を作ることは無意味です。100メートルがダメなら次は200メートル、と段階的に対応すれば、川幅の1キロを超える前に、部隊が消耗するか、資源が尽きてしまいます。

 問題を過小評価したい意識と、決定権のあるトップが現場から遠く離れていることで問題を正確に把握せず、逐次投入のアプローチで失敗を大きく拡大する。これは、未だ日本のさまざまなところで目にする、問題解決の大いなる悪弊だと思われます。

学習と仕組み化を追求した米軍の戦い方

 戦闘のもっとも初期には、日本海軍とラバウル航空隊には一定の優位があり、第一次ソロモン海戦や、零戦とF4Fの空戦では局所的に勝利を収めています。

 しかし米軍の強力な「現実対処の力」の前に、すぐに優位は逆転されていきます。

 以下は8月7日の戦闘の時のことです。

「戦争前にはコプラ農園主だったポール・エドワード・メーソンは、ブーゲンヴィル島の、ブインを見下ろすマラビタルに配置されていた。午前九時にメーソンは、二四機の日本の爆撃機がガダルカナルへ向かっているという通信を送った。この知らせがパールハーバーから侵攻艦隊に転送されてきた時は、敵はまだ六四〇キロ、時間にして二時間一五分離れたところにいた。それで艦隊には準備には十分な時間があった」(米軍戦闘機は待ち構えて高度から攻撃して、日本軍の一式陸攻爆撃機は、二四機中、二三機が撃墜された)

 次の指摘は、ガダルカナル戦の最初期の空戦、8月8日の時のことです。

「エンタープライズの航空隊の指揮官は、零戦には二つの大きな弱点があると結論を出した。すなわち限られた火力と打撃への抵抗のなさである。零戦の上昇力、運動性能、燃料容量が優秀なので、ワイルドキャット(F4F)の操縦士は緊密に協力し、攻撃された時は二機ずつから成る半小隊は、鋏の刃のように動き、常に互いに注意を払うべしと言われていた」(いずれも『ガダルカナルの戦い』より)

 米軍は、「敵の来襲をできるだけ早く察知する」という、日本軍とはまったく違う指標を追いかけていたこともわかります。敵の攻撃がわかるのが、早ければ早いほど有利になると考えていたのです。これは日本軍にはない“戦略”(指標)でした。

 また空母エンタープライズが、わずか数日の戦闘で得た結論には、米軍の最前線部隊が自律的に思考して対策を立てていることがわかります。上から下に命令がとにかく流れて、下士官からの意見や提案がほとんど考慮されなかった日本軍との、大きな違いをこの点にも見ることができるでしょう。

作戦の成功まで辿り着ける組織、
敗退する組織の違い

 ガダルカナル島を巡る戦いでは、当初日本軍が有意だった海戦、空戦での局所的な強さを、米軍の現実を前に学習する能力で、短期間に逆転されてしまいました。

 その意味で、ガダルカナル島の戦いは、組織的な学習能力の高い集団が、組織として新たな現実からの学習を軽視した集団を圧倒した戦いだということができます。

 さらに2つほど敗因を挙げるなら、一つは日本軍が白兵突撃、夜襲を得意として、それに勝った成功体験から知識(成功法)が固定化されてしまったことでしょう。

 米軍は重火器を大量に投入するほか、集音機をジャングルに設置して、日本兵の動きを把握していました。一木支隊は、現実を正確に把握することを意図せずに、過去の成功体験のまま悲劇の道を突き進んだのです。

 もう1つは、間違いに気づいたとき、計画を中止したり、計画に大きな変更や改善を加える能力や仕組みが、日本軍から組織的に奪われていたことです。前回の部隊が全滅しているにもかかわらず、同じ攻略法を選択して壊滅していく姿はまさにそうです。

 一方の米軍は、どの戦闘でも即時に何らかの教訓を引出し、現実の成果を改善するステップを創り上げようとしています。そして、問題の全体像を正確に把握して対処しようとする。そのような組織は、一日の経験が一つの進歩につながり、一つの困難が新たな問題解決力を生み出すのです。

 これは現代ビジネスでもまったく同じではないでしょうか。時代の変化、流行に左右されずに成功を続ける組織は、必ず失敗を避ける、失敗を次の成功に転換してしまう、強い学習力を必ず持つものだからです。

 戦後71年となる今日をふりかえって、私たちは本当の意味で「学習を重視」しているでしょうか。過去から学び、現在の課題に適切な対処をできているでしょうか。

 歴史としての敗戦日が、遥か遠くになったのは事実です。しかしその敗戦の原因となった失敗は、今も私たちの日本人の日常に溢れていないでしょうか。

 組織としての学習が今も未熟な日本であるならば、私たちはこれからも名著『失敗の本質』を読み継ぐべき時代の中に、変わらずいるのではないかと思わされるのです。