Photo by Yoshihisa Wada

インターネットで事業が10年で一変
環境変化がリクルートに創業精神を呼び戻した

 新卒でリクルートに就職して以来、かれこれ30年、人と組織の関係に携わってきた。

 1983年、最初に配属されたのは求人広告の営業で、企業の人事部を訪ねて新卒採用や中途採用の広告をいただく仕事だった。その後、1988年のリクルート事件を挟んで人事部に異動。2000年から人事担当の執行役員として人事制度の設計や自社の採用などに携わるようになった。

 さらに2004年からは人材紹介会社・リクルートエイブリック(現リクルートキャリア)の社長になった。そのビジネスをアジアで展開すべく香港法人の社長もやった。

 いわゆる「人事のスペシャリスト」という人は多いと思うが、私の場合は営業、人事、経営といった立場から、一貫して人と組織を見てきた。日本の中でもなかなか珍しいキャリアではないかと思っている。

 しかも、この30年というのは、日本経済も日本企業も大きく変化した時代だ。

 今でも覚えているのは、95年の流行語大賞のベスト10に「インターネット」という言葉が入ったときのこと。「これから10年も経てば紙の印刷物はなくなる」と言われた。20世紀に就職活動をした方々は、分厚い学生向け就職情報本「リクルート・ブック」をご記憶のことだろう。あの百科事典のようなリクルート・ブックがなくなったのが、まさにインターネットの本格普及から10年後の2005年だった。

 あの10年は、リクルート事件でブランドが大きく毀損し、財務的にも厳しく、しかもインターネットの勃興で本業がなくなるかもしれないという苦しい時期だった。この変化にどう対応し、どうやって生き残るのかと誰もが危機感を募らせていたのだが、社内にはまだ変化を受け止めきれず、過去の成功体験を捨てきれないでいる仲間もいた。

 かつては部下の数こそが男の甲斐性で、多くの部下を従えるボスが社内でも幅を利かせていたものだが、たった一人の学生ベンチャーが世界を変えていくのがデジタルの世界だ。過去の成功経験が必ずしも役にも立たない時代に入っていた。

 とにかくインターネット革命の本質を学ばなければならない。

 そこで、リクルートエグゼクティブビューと称して、ヒントがあるところに従業員をどんどん出していくという施策をとった。「ビュー」とは「覗く」という意味だ。子会社への出向とか資本系列への人事交流ではなく、イノベーションが起きている現場に人を送り込み、学べるだけ学んでくるのである。

 当時の私の部下で教育担当だった長嶋由紀子(現リクルートホールディングス常勤監査役)はいつもパスポートを持ち歩いていて、思い立ったらすぐに成田から米国に飛んでいき、シリコンバレーのベンチャー企業やスタンフォード大学の教授がやっているガレージ企業などを訪ねては「うちの従業員を受け入れてくれませんか」と交渉をしていた。国内海外問わず、リクルートの若手がどんどん社外に出て行き、インターネットを学んで戻ってくるということをやっていたのが、95年から2005年にかけての10年だ。

 また、当時の人事部は、階層別研修をほぼ全廃した。40代の営業部長も22歳の新人も、インターネットの前では条件は同じ。だから年齢に関係ない教育スタイルを打ち出したのだ。そして、当時人事担当役員だった関一郎さんの上に女の子が三輪車で乗っかっている写真に「リクルートのなかで偉くてもしょうがなかったりして」と書かれたポスターが社内のいたるところに貼られた。