坪井賢一
フォロー

坪井賢一

コラムニスト

1954年生まれ。78年早稲田大学政治経済学部卒業後、ダイヤモンド社入社。「週刊ダイヤモンド」編集長などを経て現職。著書に『複雑系の選択』『めちゃくちゃわかるよ!経済学』(ダイヤモンド社)『浦安図書館を支える人びと』(日本図書館協会)など。

第11回
大学生シュンペーターの最初の「履修科目」は?
坪井賢一
シュンペーターが入学してから履修した講義については、京都大学経済学部教授の八木紀一郎先生が1993年に発表した論文「シュンペーターとヴィーン大学」で詳細が明らかにされている。
大学生シュンペーターの最初の「履修科目」は?
第10回
大学生シュンペーターが歩いた帝都の景観
坪井賢一
1901年、シュンペーターはギムナジウムを卒業するとウィーン大学法・国家学部に入学する。ウィーン大学の創立はなんと1365年。ルドルフ4世が設立したドイツ圏最古の総合大学である。
大学生シュンペーターが歩いた帝都の景観
第9回
世紀末ウィーンの資本主義
坪井賢一
1893年、シュンペーターは母、継父とともにグラーツからウィーンへ移住し、貴族階級の子弟の学校であるテレジアヌム Theresianum に入学した。ここで1901年まで学び、ウィーン大学へ進学することになる。
世紀末ウィーンの資本主義
第8回
母の再婚相手は帝国の貴族
坪井賢一
シュンペーターの母親の再婚相手はSigmund von Kélerという退役した陸軍中将だった。姓名の発音は、ドイツ語読みならばジークムント・フォン・ケラーになる。フォンは貴族の証だ。爵位がないのでユンカーであろうか。
母の再婚相手は帝国の貴族
第7回
シュンペーター母子 チェコからオーストリアへ転居
坪井賢一
シュンペーターがオーストリア第2の大都会グラーツに移り住んだ理由は、教育問題にあったらしい。父親亡き後、20代半ばの母親はシュンペーターを立派に育て、一流の教育を受けさせたかったのだろう。
シュンペーター母子 チェコからオーストリアへ転居
第6回
イノベーションを再定義
坪井賢一
シュンペーターの母親は、オーストリア帝国シュタイヤーマルク州の州都、グラーツへ移り住むことになる。ウィーン大学入学まであと13年、もう少し人生の揺籃期におつきあい願いたい。
イノベーションを再定義
第5回
フローレンス行進曲のナゾ(2)
坪井賢一
「フローレンス」はフィレンツェのことだが、語源は「花の女神Florentia」なので、各国語で似たような表記になる。したがってフローレンス行進曲の名称には英語やドイツ語が混じってしまっている。
フローレンス行進曲のナゾ(2)
第4回
フローレンス行進曲のナゾ(1)
坪井賢一
シュンペーターとほぼ同時代に活躍したボヘミア出身の作曲家にユリウス・フチークという人物がいる。44歳で急死したため後半生は重なっていないが、シュンペーターより11歳年上のチェコ人だ。
フローレンス行進曲のナゾ(1)
第3回
モラヴィアへ300年間の大移動
坪井賢一
シュンペーター家はドイツ人で、ドイツ語を話していた。ではなぜ、モラヴィア(現チェコ)にドイツ人のシュンペーター家が暮らしていたのだろうか。
モラヴィアへ300年間の大移動
第2回
シュンペーターはチェコのドイツ人
坪井賢一
シュンペーターはドイツ語を母語としたドイツ系の家系出身だが、生まれたのはモラヴィアの小さな町である。モラヴィアとは現在のチェコ東部のことだ。
シュンペーターはチェコのドイツ人
第1回
95年前に発想したイノベーションの原理
坪井賢一
シュンペーターは高名な経済学者であり、世界中の経営者やビジネスマンに大きな影響を与えている経済思想家だが、著書は広く読まれているわけではない。
95年前に発想したイノベーションの原理
新着
業界
学び
特集 書籍
業界
製造業 銀行・証券・金融 保険 建設・不動産 コンサル・士業 商社 運輸・物流 IT・通信 AI・テクノロジー エネルギー 医療・製薬 食品・農業 小売・外食 サービス・エンタメ メディア・広告 スタートアップ・新規事業 教育 財閥・学閥 予測・分析
学び
経営・戦略 マネジメント ビジネス課題 ビジネススキル 営業・マーケティング マネー・投資 相続・節税 年金 キャリア・働き方 受験・子育て 教養