2008.4.16 フィリッポヴィッチ教授と日本の教科書 シュンペーターのゼミの教授であったフィリッポヴィッチ教授。彼には著書・論文が多数あった。中でも『フィリッポヴィッチ氏経済原論』『フィリッポヴィッチ氏経済政策』は日本でも翻訳出版され、相当売れたようである。
2008.4.2 大学1年生時の最多履修科目は「フェンシング」 1902年夏学期(第2学期)にもシュンペーターはフェンシングを6週で12コマも受講している。つまり1年間で計60コマ。全部出席していたとも思えないが、全教科でいちばん多く履修していたことは間違いない。
2008.3.19 「マッハの古典力学批判」を受講 シュンペーターが受講した「力学の歴史と哲学」、教えたのはアロイス・ヘフラーというウィーン大学私講師だった。ヘフラーはデューリンクとマッハを対置させつつ、力学史を批判的に語ったのだと思う。
2008.3.5 大学生シュンペーターの最初の「履修科目」は? シュンペーターが入学してから履修した講義については、京都大学経済学部教授の八木紀一郎先生が1993年に発表した論文「シュンペーターとヴィーン大学」で詳細が明らかにされている。
2008.2.20 大学生シュンペーターが歩いた帝都の景観 1901年、シュンペーターはギムナジウムを卒業するとウィーン大学法・国家学部に入学する。ウィーン大学の創立はなんと1365年。ルドルフ4世が設立したドイツ圏最古の総合大学である。
2008.2.6 世紀末ウィーンの資本主義 1893年、シュンペーターは母、継父とともにグラーツからウィーンへ移住し、貴族階級の子弟の学校であるテレジアヌム Theresianum に入学した。ここで1901年まで学び、ウィーン大学へ進学することになる。
2008.1.22 母の再婚相手は帝国の貴族 シュンペーターの母親の再婚相手はSigmund von Kélerという退役した陸軍中将だった。姓名の発音は、ドイツ語読みならばジークムント・フォン・ケラーになる。フォンは貴族の証だ。爵位がないのでユンカーであろうか。
2007.12.21 シュンペーター母子 チェコからオーストリアへ転居 シュンペーターがオーストリア第2の大都会グラーツに移り住んだ理由は、教育問題にあったらしい。父親亡き後、20代半ばの母親はシュンペーターを立派に育て、一流の教育を受けさせたかったのだろう。
2007.12.19 イノベーションを再定義 シュンペーターの母親は、オーストリア帝国シュタイヤーマルク州の州都、グラーツへ移り住むことになる。ウィーン大学入学まであと13年、もう少し人生の揺籃期におつきあい願いたい。
2007.12.5 フローレンス行進曲のナゾ(2) 「フローレンス」はフィレンツェのことだが、語源は「花の女神Florentia」なので、各国語で似たような表記になる。したがってフローレンス行進曲の名称には英語やドイツ語が混じってしまっている。
2007.11.21 フローレンス行進曲のナゾ(1) シュンペーターとほぼ同時代に活躍したボヘミア出身の作曲家にユリウス・フチークという人物がいる。44歳で急死したため後半生は重なっていないが、シュンペーターより11歳年上のチェコ人だ。
2007.10.17 95年前に発想したイノベーションの原理 シュンペーターは高名な経済学者であり、世界中の経営者やビジネスマンに大きな影響を与えている経済思想家だが、著書は広く読まれているわけではない。