坪井賢一
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坪井賢一

コラムニスト

1954年生まれ。78年早稲田大学政治経済学部卒業後、ダイヤモンド社入社。「週刊ダイヤモンド」編集長などを経て現職。著書に『複雑系の選択』『めちゃくちゃわかるよ!経済学』(ダイヤモンド社)『浦安図書館を支える人びと』(日本図書館協会)など。

第31回
ヨーロッパで最初の近代国家ヴェネツィア12世紀の「生産技術」革命
坪井賢一
前回紹介したジョン・ローのことを「12世紀の商事企業家」とシュンペーターは書いている。12世紀のヴェネツィアに企業家がいたのだろうか。海洋貿易国家として繁栄した12世紀のヴェネツィアについて見ていこう。
ヨーロッパで最初の近代国家ヴェネツィア12世紀の「生産技術」革命
第30回
ジョン・ローの「18世紀金融システム・イノベーション」
坪井賢一
ジョン・ローは世界史上初期となる18世紀の金融バブル崩壊の犯人と言われた人物。しかしシュンペーターは、金融システムに革新的なイノベーションを起こした人物として一定の評価をしている。
ジョン・ローの「18世紀金融システム・イノベーション」
第29回
イノベーションを遂行する「企業者」の条件
坪井賢一
イノベーションの担い手である企業者について、シュンペーターは、英雄的「個人」ではなく、経済主体の「機能」のことを指している。シュンペーターは企業家という言葉を多義的に使用しているのだ。
イノベーションを遂行する「企業者」の条件
第28回
『経済発展の理論』に描かれたイノベーションの5分類
坪井賢一
このシュンペーターの代表作は、彼の経済観から理論的枠組みまで、のちの著書の主題まで含んだもので、本書だけ読めばシュンペーターの経済学の概要を知ることができる。本稿で重要部分をダイジェストしておこう。
『経済発展の理論』に描かれたイノベーションの5分類
第27回
グラーツ大学の正教授に。ついに代表作『経済発展の理論』を上梓!
坪井賢一
1911年の12月、ベーム=バヴェルク氏の推薦により、シュンペーターはグラーツ大学に正教授として迎えられる。そして翌年の1912年、ついに代表作となる『経済発展の理論』を完成させたのだった。
グラーツ大学の正教授に。ついに代表作『経済発展の理論』を上梓!
第26回
“教室外”でも大活躍?シュンペーターの「アラビアン・ナイト」
坪井賢一
シュンペーターの同僚達は、アラビアン・ナイト物語の一篇かともまごうばかりの彼の教室外での活躍綺譚の数々を聞いて喜んでいた。シュンペーターは貴族風を吹かせ、この地の生活を楽しんでいたように思える。
“教室外”でも大活躍?シュンペーターの「アラビアン・ナイト」
第25回
チェルノヴィッツ大学で正准教授に。境界都市の複雑な歴史的背景
坪井賢一
1909-1910年冬学期からシュンペーターはチェルノヴィッツ大学正准教授として講義をはじめた。大学の歴史をひもとくと、支配者が移り変わっていく境界都市の複雑な歴史的背景の一端がわかる。
チェルノヴィッツ大学で正准教授に。境界都市の複雑な歴史的背景
第24回
シュンペーターの処女作『理論経済学の本質と主要内容』
坪井賢一
シュンペーターの処女作である『理論経済学の本質と主要内容』は、実は非常に読みにくい。本書では、「ワルラス一般均衡理論」の意義について論理実証主義を使って検証している。
シュンペーターの処女作『理論経済学の本質と主要内容』
第23回
フロイト、マーラー、シュンペーターの共通点
坪井賢一
ジークムント・フロイト(精神分析学者)、グスタフ・マーラー(作曲家)、そしてシュンペーターの共通項は、ともにモラヴィアの出身で幼少年期に帝都ウィーンへ移住し、ウィーン大学で学んだことである。
フロイト、マーラー、シュンペーターの共通点
第22回
母校ウィーン大学で政治経済学の講師に
坪井賢一
1909年3月16日、シュンペーターはウィーン大学私講師として正式に認められることになった。ウィーン大学で私講師資格を得たシュンペーターは、さっそく1909年夏学期に2コマの講義を行なうことになった。
母校ウィーン大学で政治経済学の講師に
第21回
ロンドンで結婚、カイロで就職
坪井賢一
1907年11月、シュンペーターはロンドンで電撃結婚をする。なんと、相手は英国国教会の高官の娘、グレイディス・リカード・シーヴァー。このときシーヴァーは36歳、シュンペーターは24歳だった。
ロンドンで結婚、カイロで就職
第20回
ロンドンで参加した多様なゼミナール
坪井賢一
弁護士資格を得たシュンペーターは、ドイツやイギリスへ留学。ロンドンでは経済学以外のゼミナールにも参加し、大いに影響を受けたという。生活でも学問上でも、非常に快適な生活だったようだ。
ロンドンで参加した多様なゼミナール
第19回
「マルクス論争」直後にウィーン大学を卒業
坪井賢一
1905年夏学期。ウィーン大学のバヴェルクゼミでは、マルクス支持派、急進的自由主義者などの学生が集まり、教授を囲んでマルクスをめぐる大討論が続いていた。その直後、シュンペーターはウィーン大学を卒業する。
「マルクス論争」直後にウィーン大学を卒業
第18回
ベーム=バヴェルク名誉教授のゼミで激論
坪井賢一
ウィーン大学での最後の学期、シュンペーターはベーム=バヴェルク名誉教授のゼミを受講した。そのゼミナールには、後に超有名人となる面々が揃っていた。
ベーム=バヴェルク名誉教授のゼミで激論
第17回
メンガーの後継者、ヴィーザー教授のゼミへ
坪井賢一
シュンペーターは第6学期でヴィーザー教授のゼミナールに参加。カール・メンガーの後継者、ヴィーザー教授は1903年にプラハ大学からウィーン大学へ移り、メンガーの経済学講座を引き継いでいた。
メンガーの後継者、ヴィーザー教授のゼミへ
第16回
役人?それとも新聞記者? カール・メンガーの正体は?
坪井賢一
カール・メンガーとはどのような人物だったのか。文献によっては「官吏」だったり「新聞記者」だったりとまちまち。なぜ官吏でかつ新聞記者なのかさっぱり理解できなかったが、『オーストリアの経済思想』(八木紀一郎著)を読んでようやく謎が解けた。
役人?それとも新聞記者? カール・メンガーの正体は?
第15回
カール・メンガー「限界効用理論」の誕生
坪井賢一
シュンペーターが第4学期と第5学期を過ごしていた1903年、ウィーン大学教授カール・メンガーが退官し、名誉教授となった。カール・メンガー(Carl Menger 1840-1921)は限界効用理論で近代経済学の方向を決定付けた人物の1人である。
カール・メンガー「限界効用理論」の誕生
第14回
フィリッポヴィッチ教授と日本の教科書
坪井賢一
シュンペーターのゼミの教授であったフィリッポヴィッチ教授。彼には著書・論文が多数あった。中でも『フィリッポヴィッチ氏経済原論』『フィリッポヴィッチ氏経済政策』は日本でも翻訳出版され、相当売れたようである。
フィリッポヴィッチ教授と日本の教科書
第13回
大学1年生時の最多履修科目は「フェンシング」
坪井賢一
1902年夏学期(第2学期)にもシュンペーターはフェンシングを6週で12コマも受講している。つまり1年間で計60コマ。全部出席していたとも思えないが、全教科でいちばん多く履修していたことは間違いない。
大学1年生時の最多履修科目は「フェンシング」
第12回
「マッハの古典力学批判」を受講
坪井賢一
シュンペーターが受講した「力学の歴史と哲学」、教えたのはアロイス・ヘフラーというウィーン大学私講師だった。ヘフラーはデューリンクとマッハを対置させつつ、力学史を批判的に語ったのだと思う。
「マッハの古典力学批判」を受講
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