坪井賢一

坪井賢一

コラムニスト

1954年生まれ。78年早稲田大学政治経済学部卒業後、ダイヤモンド社入社。「週刊ダイヤモンド」編集長などを経て現職。著書に『複雑系の選択』『めちゃくちゃわかるよ!経済学』(ダイヤモンド社)『浦安図書館を支える人びと』(日本図書館協会)など。

第20回
ロンドンで参加した多様なゼミナール
坪井賢一
弁護士資格を得たシュンペーターは、ドイツやイギリスへ留学。ロンドンでは経済学以外のゼミナールにも参加し、大いに影響を受けたという。生活でも学問上でも、非常に快適な生活だったようだ。
ロンドンで参加した多様なゼミナール
第19回
「マルクス論争」直後にウィーン大学を卒業
坪井賢一
1905年夏学期。ウィーン大学のバヴェルクゼミでは、マルクス支持派、急進的自由主義者などの学生が集まり、教授を囲んでマルクスをめぐる大討論が続いていた。その直後、シュンペーターはウィーン大学を卒業する。
「マルクス論争」直後にウィーン大学を卒業
第18回
ベーム=バヴェルク名誉教授のゼミで激論
坪井賢一
ウィーン大学での最後の学期、シュンペーターはベーム=バヴェルク名誉教授のゼミを受講した。そのゼミナールには、後に超有名人となる面々が揃っていた。
ベーム=バヴェルク名誉教授のゼミで激論
第17回
メンガーの後継者、ヴィーザー教授のゼミへ
坪井賢一
シュンペーターは第6学期でヴィーザー教授のゼミナールに参加。カール・メンガーの後継者、ヴィーザー教授は1903年にプラハ大学からウィーン大学へ移り、メンガーの経済学講座を引き継いでいた。
メンガーの後継者、ヴィーザー教授のゼミへ
第16回
役人?それとも新聞記者? カール・メンガーの正体は?
坪井賢一
カール・メンガーとはどのような人物だったのか。文献によっては「官吏」だったり「新聞記者」だったりとまちまち。なぜ官吏でかつ新聞記者なのかさっぱり理解できなかったが、『オーストリアの経済思想』(八木紀一郎著)を読んでようやく謎が解けた。
役人?それとも新聞記者? カール・メンガーの正体は?
第15回
カール・メンガー「限界効用理論」の誕生
坪井賢一
シュンペーターが第4学期と第5学期を過ごしていた1903年、ウィーン大学教授カール・メンガーが退官し、名誉教授となった。カール・メンガー(Carl Menger 1840-1921)は限界効用理論で近代経済学の方向を決定付けた人物の1人である。
カール・メンガー「限界効用理論」の誕生
第14回
フィリッポヴィッチ教授と日本の教科書
坪井賢一
シュンペーターのゼミの教授であったフィリッポヴィッチ教授。彼には著書・論文が多数あった。中でも『フィリッポヴィッチ氏経済原論』『フィリッポヴィッチ氏経済政策』は日本でも翻訳出版され、相当売れたようである。
フィリッポヴィッチ教授と日本の教科書
第13回
大学1年生時の最多履修科目は「フェンシング」
坪井賢一
1902年夏学期(第2学期)にもシュンペーターはフェンシングを6週で12コマも受講している。つまり1年間で計60コマ。全部出席していたとも思えないが、全教科でいちばん多く履修していたことは間違いない。
大学1年生時の最多履修科目は「フェンシング」
第12回
「マッハの古典力学批判」を受講
坪井賢一
シュンペーターが受講した「力学の歴史と哲学」、教えたのはアロイス・ヘフラーというウィーン大学私講師だった。ヘフラーはデューリンクとマッハを対置させつつ、力学史を批判的に語ったのだと思う。
「マッハの古典力学批判」を受講
第11回
大学生シュンペーターの最初の「履修科目」は?
坪井賢一
シュンペーターが入学してから履修した講義については、京都大学経済学部教授の八木紀一郎先生が1993年に発表した論文「シュンペーターとヴィーン大学」で詳細が明らかにされている。
大学生シュンペーターの最初の「履修科目」は?
第10回
大学生シュンペーターが歩いた帝都の景観
坪井賢一
1901年、シュンペーターはギムナジウムを卒業するとウィーン大学法・国家学部に入学する。ウィーン大学の創立はなんと1365年。ルドルフ4世が設立したドイツ圏最古の総合大学である。
大学生シュンペーターが歩いた帝都の景観
第9回
世紀末ウィーンの資本主義
坪井賢一
1893年、シュンペーターは母、継父とともにグラーツからウィーンへ移住し、貴族階級の子弟の学校であるテレジアヌム Theresianum に入学した。ここで1901年まで学び、ウィーン大学へ進学することになる。
世紀末ウィーンの資本主義
第8回
母の再婚相手は帝国の貴族
坪井賢一
シュンペーターの母親の再婚相手はSigmund von Kélerという退役した陸軍中将だった。姓名の発音は、ドイツ語読みならばジークムント・フォン・ケラーになる。フォンは貴族の証だ。爵位がないのでユンカーであろうか。
母の再婚相手は帝国の貴族
第7回
シュンペーター母子 チェコからオーストリアへ転居
坪井賢一
シュンペーターがオーストリア第2の大都会グラーツに移り住んだ理由は、教育問題にあったらしい。父親亡き後、20代半ばの母親はシュンペーターを立派に育て、一流の教育を受けさせたかったのだろう。
シュンペーター母子 チェコからオーストリアへ転居
第6回
イノベーションを再定義
坪井賢一
シュンペーターの母親は、オーストリア帝国シュタイヤーマルク州の州都、グラーツへ移り住むことになる。ウィーン大学入学まであと13年、もう少し人生の揺籃期におつきあい願いたい。
イノベーションを再定義
第5回
フローレンス行進曲のナゾ(2)
坪井賢一
「フローレンス」はフィレンツェのことだが、語源は「花の女神Florentia」なので、各国語で似たような表記になる。したがってフローレンス行進曲の名称には英語やドイツ語が混じってしまっている。
フローレンス行進曲のナゾ(2)
第4回
フローレンス行進曲のナゾ(1)
坪井賢一
シュンペーターとほぼ同時代に活躍したボヘミア出身の作曲家にユリウス・フチークという人物がいる。44歳で急死したため後半生は重なっていないが、シュンペーターより11歳年上のチェコ人だ。
フローレンス行進曲のナゾ(1)
第3回
モラヴィアへ300年間の大移動
坪井賢一
シュンペーター家はドイツ人で、ドイツ語を話していた。ではなぜ、モラヴィア(現チェコ)にドイツ人のシュンペーター家が暮らしていたのだろうか。
モラヴィアへ300年間の大移動
第2回
シュンペーターはチェコのドイツ人
坪井賢一
シュンペーターはドイツ語を母語としたドイツ系の家系出身だが、生まれたのはモラヴィアの小さな町である。モラヴィアとは現在のチェコ東部のことだ。
シュンペーターはチェコのドイツ人
第1回
95年前に発想したイノベーションの原理
坪井賢一
シュンペーターは高名な経済学者であり、世界中の経営者やビジネスマンに大きな影響を与えている経済思想家だが、著書は広く読まれているわけではない。
95年前に発想したイノベーションの原理
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