
坪井賢一
第20回
弁護士資格を得たシュンペーターは、ドイツやイギリスへ留学。ロンドンでは経済学以外のゼミナールにも参加し、大いに影響を受けたという。生活でも学問上でも、非常に快適な生活だったようだ。

第19回
1905年夏学期。ウィーン大学のバヴェルクゼミでは、マルクス支持派、急進的自由主義者などの学生が集まり、教授を囲んでマルクスをめぐる大討論が続いていた。その直後、シュンペーターはウィーン大学を卒業する。

第18回
ウィーン大学での最後の学期、シュンペーターはベーム=バヴェルク名誉教授のゼミを受講した。そのゼミナールには、後に超有名人となる面々が揃っていた。

第17回
シュンペーターは第6学期でヴィーザー教授のゼミナールに参加。カール・メンガーの後継者、ヴィーザー教授は1903年にプラハ大学からウィーン大学へ移り、メンガーの経済学講座を引き継いでいた。

第16回
カール・メンガーとはどのような人物だったのか。文献によっては「官吏」だったり「新聞記者」だったりとまちまち。なぜ官吏でかつ新聞記者なのかさっぱり理解できなかったが、『オーストリアの経済思想』(八木紀一郎著)を読んでようやく謎が解けた。

第15回
シュンペーターが第4学期と第5学期を過ごしていた1903年、ウィーン大学教授カール・メンガーが退官し、名誉教授となった。カール・メンガー(Carl Menger 1840-1921)は限界効用理論で近代経済学の方向を決定付けた人物の1人である。

第14回
シュンペーターのゼミの教授であったフィリッポヴィッチ教授。彼には著書・論文が多数あった。中でも『フィリッポヴィッチ氏経済原論』『フィリッポヴィッチ氏経済政策』は日本でも翻訳出版され、相当売れたようである。

第13回
1902年夏学期(第2学期)にもシュンペーターはフェンシングを6週で12コマも受講している。つまり1年間で計60コマ。全部出席していたとも思えないが、全教科でいちばん多く履修していたことは間違いない。

第12回
シュンペーターが受講した「力学の歴史と哲学」、教えたのはアロイス・ヘフラーというウィーン大学私講師だった。ヘフラーはデューリンクとマッハを対置させつつ、力学史を批判的に語ったのだと思う。

第11回
シュンペーターが入学してから履修した講義については、京都大学経済学部教授の八木紀一郎先生が1993年に発表した論文「シュンペーターとヴィーン大学」で詳細が明らかにされている。

第10回
1901年、シュンペーターはギムナジウムを卒業するとウィーン大学法・国家学部に入学する。ウィーン大学の創立はなんと1365年。ルドルフ4世が設立したドイツ圏最古の総合大学である。

第9回
1893年、シュンペーターは母、継父とともにグラーツからウィーンへ移住し、貴族階級の子弟の学校であるテレジアヌム Theresianum に入学した。ここで1901年まで学び、ウィーン大学へ進学することになる。

第8回
シュンペーターの母親の再婚相手はSigmund von Kélerという退役した陸軍中将だった。姓名の発音は、ドイツ語読みならばジークムント・フォン・ケラーになる。フォンは貴族の証だ。爵位がないのでユンカーであろうか。

第7回
シュンペーターがオーストリア第2の大都会グラーツに移り住んだ理由は、教育問題にあったらしい。父親亡き後、20代半ばの母親はシュンペーターを立派に育て、一流の教育を受けさせたかったのだろう。

第6回
シュンペーターの母親は、オーストリア帝国シュタイヤーマルク州の州都、グラーツへ移り住むことになる。ウィーン大学入学まであと13年、もう少し人生の揺籃期におつきあい願いたい。

第5回
「フローレンス」はフィレンツェのことだが、語源は「花の女神Florentia」なので、各国語で似たような表記になる。したがってフローレンス行進曲の名称には英語やドイツ語が混じってしまっている。

第4回
シュンペーターとほぼ同時代に活躍したボヘミア出身の作曲家にユリウス・フチークという人物がいる。44歳で急死したため後半生は重なっていないが、シュンペーターより11歳年上のチェコ人だ。

第3回
シュンペーター家はドイツ人で、ドイツ語を話していた。ではなぜ、モラヴィア(現チェコ)にドイツ人のシュンペーター家が暮らしていたのだろうか。

第2回
シュンペーターはドイツ語を母語としたドイツ系の家系出身だが、生まれたのはモラヴィアの小さな町である。モラヴィアとは現在のチェコ東部のことだ。

第1回
シュンペーターは高名な経済学者であり、世界中の経営者やビジネスマンに大きな影響を与えている経済思想家だが、著書は広く読まれているわけではない。
