1893年、シュンペーターは母、継父とともにグラーツからウィーンへ移住し、貴族階級の子弟の学校であるテレジアヌム Theresianum に入学した。ここで1901年まで学び、ウィーン大学へ進学することになる。

 テレジアヌムの建物は現在も当時と変わらずに存在する。もちろん学校も。現在の名称はテレジアニッシェ・アカデミー・ウィーンという(注1)。ギムナジウムである。ギムナジウムとは、大学進学のための9年制学校である。テレジアとはマリア・テレジア(1717-1780、ハプスブルク帝国の皇后、女王)のことで、彼女が設立者である。ちなみに、マリア・テレジアは帝国内に小学校を配置し、義務教育制度を導入したことでも知られる。

 シュンペーターが中等教育機関テレジアヌムに入学した1893年、帝都ウィーンはどのような都市だったのだろう。ざーっと18世紀末から歴史的事態の推移を追ってみよう。

ナポレオンの盛衰を
見つめた帝都ウィーン

 フランス革命(1789)のあと、欧州の王族たちはフランスへさかんに干渉していたのだが、フランス国内でも王党派と共和派が小競り合いを続けていた。ウィーンからみると、フランス王家へ嫁入りしたマリー・アントワネットを処刑したフランス革命は忌み嫌うべきものだったろう。あるいは恐怖していたかもしれない。

 共和制に対する各国の干渉への闘争、王党派への闘争で勇躍登場したのがナポレオン・ボナパルト(1769-1821)である。19世紀に入るとナポレオンはハプスブルク支配下のイタリア、そしてドイツの各地に侵攻し、次々と占領していった。やがてウィーンも占領することになり、ハプスブルク家から3番目か4番目の夫人までもらう。

 しかし、1812年にかの有名なロシアへの侵攻で大敗し、1814年、欧州各国連合軍に敗れ、皇帝を退位し、地中海のエルバ島へ流されてしまった、翌年にはエルバ島を脱出して再起したが、ワーテルローの戦いで最終的に破れ、アフリカのセントヘレナ島へ流されてのち、1821年に死亡している。

 1814年にウィーン会議が対ナポレオン連合国によって開かれ、ポスト・ナポレオン体制をナポレオン以前の状態に戻すことで合意した。「会議は踊る、されど進まず」で有名なウィーン会議である。

 ところが、すでに企業家の時代である。市民階層が成長し、貴族は没落の運命にあった。ナポレオンは各国を侵略したが、フランス革命の「自由、平等、博愛」は各地で波紋を呼んだ。本稿はフランス革命の評価が目的ではないので深入りは避けるが、少なくとも貴族階級による絶対支配に疑問を持つ市民が増えたことは間違いないだろう。

 たとえばベートーヴェンである。ベートーヴェンは1789年、フランス革命の年にボン大学法学部へ入学し、1792年にウィーンへ移住している。ボン大学では共和制に共感をもつ教授に出会い、シラーの自由主義的な詩を学び、交響曲第9番のメモを取り始めている。1805年に初演した交響曲第3番「英雄」はそもそもナポレオンのことだった。1804年に皇帝位に就いたナポレオンに失望し、「ある英雄の思い出のために」と表題を書き直したエピソードが知られている。(注2)

 筆者は中学生のころ、皇帝になったナポレオンにベートーヴェンがどうして失望したのかさっぱり理解できずに悩んだことがある。なにしろ、英雄交響曲のレコード・ジャケットは、当時例外なくナポレオンの勇ましい絵だったからだ。