
坪井賢一
第40回
シュンペーターは、オーストラリア共和国財務大臣に就任する。推したのは大学の旧友バウアーだった。彼は鋭い洞察力の持ち主であり、大学時にはドイツ民族の自決を構想していた。

第39回
産業の国有化を議論するため、1918年に発足したドイツ社会化委員会。その委員にシュンペーターを引っ張り込んだのは、ウィーン大学のゼミ生仲間だったルドルフ・ヒルファーディンクとエミール・レーデラーである。

第38回
敗戦によりドイツ、オーストリア帝国は崩壊。シュンペーターは、ドイツ仮政府のもと作られた「社会化委員会」の委員に就任した。企業者と金融資本家を重視する自由主義経済学者にもかかわらず、である。

第37回
ソニーCEOのストリンガー氏が1月8日の講演で、ソニーの成長に必要な7つのイノベーションについて語っている。家電産業が直面する課題をもとに、シュンペーター的回答を考察したものと筆者は理解している。

第36回
多くの犠牲者を出したロシア革命に対して「満足している」と表明し、ウェーバーを激怒させたシュンペーター。一方、著書では「ロシア革命は失敗する」と書いている。この矛盾した態度はどこから来ているのだろうか?

第35回
シュンペーターの学友・ゾマリー回想録によると、ある時彼らはウィーンのカフェで社会主義の是非をめぐり、激しい議論になったという。シュンペーターがウェーバーを挑発し、激高させたというのだ。

第34回
第一次大戦下、オーストリアとドイツの帝政崩壊まで、確実に秒読み段階へ入った1918年。シュンペーターは『租税国家の危機』を出版。本書の中で彼は、敗戦後のインフレを予見、その対策を提案している。

第33回
第1次大戦下、シュンペーターは11本の論文を発表している。それを読んでみると、複雑な世相を反映してか、矛盾だらけでなんとも腑に落ちないところが多い。当時の状況を知らないとさっぱりわからないだろう。

第32回
1913/14年冬学期から1914年夏学期まで、シュンペーターはアメリカのコロンビア大学に招聘され、交換教授として滞在した。初めてのアメリカである。フィッシャーをはじめ、多くの経済学者を親交を深めた。

第31回
前回紹介したジョン・ローのことを「12世紀の商事企業家」とシュンペーターは書いている。12世紀のヴェネツィアに企業家がいたのだろうか。海洋貿易国家として繁栄した12世紀のヴェネツィアについて見ていこう。

第30回
ジョン・ローは世界史上初期となる18世紀の金融バブル崩壊の犯人と言われた人物。しかしシュンペーターは、金融システムに革新的なイノベーションを起こした人物として一定の評価をしている。

第29回
イノベーションの担い手である企業者について、シュンペーターは、英雄的「個人」ではなく、経済主体の「機能」のことを指している。シュンペーターは企業家という言葉を多義的に使用しているのだ。

第28回
このシュンペーターの代表作は、彼の経済観から理論的枠組みまで、のちの著書の主題まで含んだもので、本書だけ読めばシュンペーターの経済学の概要を知ることができる。本稿で重要部分をダイジェストしておこう。

第27回
1911年の12月、ベーム=バヴェルク氏の推薦により、シュンペーターはグラーツ大学に正教授として迎えられる。そして翌年の1912年、ついに代表作となる『経済発展の理論』を完成させたのだった。

第26回
シュンペーターの同僚達は、アラビアン・ナイト物語の一篇かともまごうばかりの彼の教室外での活躍綺譚の数々を聞いて喜んでいた。シュンペーターは貴族風を吹かせ、この地の生活を楽しんでいたように思える。

第25回
1909-1910年冬学期からシュンペーターはチェルノヴィッツ大学正准教授として講義をはじめた。大学の歴史をひもとくと、支配者が移り変わっていく境界都市の複雑な歴史的背景の一端がわかる。

第24回
シュンペーターの処女作である『理論経済学の本質と主要内容』は、実は非常に読みにくい。本書では、「ワルラス一般均衡理論」の意義について論理実証主義を使って検証している。

第23回
ジークムント・フロイト(精神分析学者)、グスタフ・マーラー(作曲家)、そしてシュンペーターの共通項は、ともにモラヴィアの出身で幼少年期に帝都ウィーンへ移住し、ウィーン大学で学んだことである。

第22回
1909年3月16日、シュンペーターはウィーン大学私講師として正式に認められることになった。ウィーン大学で私講師資格を得たシュンペーターは、さっそく1909年夏学期に2コマの講義を行なうことになった。

第21回
1907年11月、シュンペーターはロンドンで電撃結婚をする。なんと、相手は英国国教会の高官の娘、グレイディス・リカード・シーヴァー。このときシーヴァーは36歳、シュンペーターは24歳だった。
