小池都知事が指摘した「空気の影響力」
一連の問題点にメスをいれた小池新知事は、座右の書として『失敗の本質』を挙げています。書籍『失敗の本質』は1984年に出版され、日本的組織論の名著として現代まで読み継がれ、累計で70万部を突破するロングセラーとなっています。
小池氏は記者会見で「流れや空気のなかで進んで」と発言しています。なんとなく、そちらの結論(盛り土をしない)に引っ張られていった状況を表現しているのでしょう。
一般に、私たちが「空気」という言葉を使うとき、何らかの形で拘束・歯止めをかけられた状態を指すことが多いようです。「あの場の空気ではとても反論できなかった」など。今回の問題に限らず、「空気」で物事がゆがめられていくことに、私たち日本人は長年うんざりしているのも正直なところではないでしょうか。
有名な山本七平氏の著作に、『「空気」の研究』(初版1977年)という書があります。山本氏は多くの日本人論の著作を残していますが、日本が一面焼け野原となった太平洋戦争も「空気の支配」によって引き起こされたとしています。
「それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として、『抗空気罪』で社会的に葬るほどの力を持つ超能力であることは明らかである」(『「空気」の研究』より)
「戦艦大和の出撃などは“空気”決定のほんの一例にすぎず、太平洋戦争そのものが、否、その前の日華事変の発端と対処の仕方が、すべて“空気”決定なのである。だが公害問題への対処、日中国交回復時の現象などを見ていくと、“空気”決定は、これからもわれわれを拘束しつづけ、全く同じ運命にわれわれを追い込むかもしれぬ」(同前)
日本の敗戦は1945年であり、すでに71年前のはるか昔の出来事です。にもかかわらず、現在も「日本人と空気」の問題は未解決であり、豊洲問題に限らずいろいろな社会問題で、失敗を生んだ空気がいまだ注目され、様々な議論・解説がされているのです。
「空気」が蔓延した
旧日本軍の「失敗の本質」との共通点
「空気」が生み出されると、一体何が起こり始めるか。責任の所在は段階的に見えなくなり、「なんとなく」一つの流れが生み出されていく。やがて「ここでは問題の本質を検討しない」という暗黙の了解が作られていくのです。
旧日本軍でよく引き合いに出される、インパール作戦という失敗があります。ビルマからインド北部に侵攻する作戦でしたが、計画段階で武器食糧の補給が不可能という指摘がありながら無謀にも実行されました(結果、大惨敗で防衛線が崩壊した)。
成り立たない作戦のため参謀を含めた多くの部下が止めるも無視されました。上司の河辺方面軍司令官が、作戦の提唱者である牟田口司令官(第十五軍)の努力を見てこの作戦を支援したために、ついに決行されました。
「第十五軍の薄井補給参謀が補給問題にとても責任が持てないと答えたのに対して、牟田口司令官が立ち上がって「なあに、心配はいらん、敵に遭遇したら銃口を空にむけて三発打つと、敵は降伏する約束になっとる」と自信ありげに述べたという」(『失敗の本質』より)
つまり、武器弾薬・食糧の問題を真剣に検討せずに、「もう決定した作戦だから」と実行されたのです。作戦遂行の前提条件を、空気で押し切って無視している組織の姿が71年前にもあるのです。
【「空気が醸成される」悪影響の構造】
「ここでは補給困難を検討しない」
※前提条件の必要性を、あえて検討することを放棄していることに注目
組織の誰かが「ここではそれを検討しない」、という意図を進めると、それに迎合する人たちのグループが形成されるようになります。それは、組織内で利害を同じくする側の場合もあれば、迎合することで得をする立場に引き上げられた人の場合もあります。初期段階では、この空気は冷静な現実をぶつけることで、崩すことも可能です。しかし、「空気に迎合する人間」が増えると、今度は同調圧力が高まります。
あのときの日本軍はどうなっていったのか。
「第十五軍幕僚の間に存在した慎重論は、もはや軍司令官に直接伝えられることはなかった。何をいっても無理だというムードが、第十五軍司令部をつつんでいた」(『失敗の本質』より)
インパールに侵攻することで、インド北部からの英軍の攻撃を阻止しようとした作戦は、無謀な指揮官に先導されたことで大敗北に終わります。結果として、日本軍の占領していたビルマの防衛線そのものが崩壊することになったのです。