人間関係における「真の賢さ」

 人の心は、変わるからである。

人間の心というものは、我々自身が思っているよりも、しなやかなものである。一時は、相手に対する不信、不満、憤り、怒り、嫌悪、憎悪などの感情によって心が離れても、時間が過ぎゆくにつれ、それらの感情が収まり、相手を許す思いや、自分の非を認める思い、過去の出来事を受け容れる思いや、未来に向かって新たな関係を築こうとの思いが浮かんでくるときがある。

 それゆえ、人間関係における「真の賢さ」とは、「決して、人と心が離れない」といった聖人のごとき賢さではなく、「一時、人と心が離れても、どこかに和解する余地を残し、いつか和解していく」という賢さに他ならない。

 世の中には、「人間関係が下手」と言われる人がいる。それは、決して「人とぶつかってしまう人」のことではない。それは、「人とぶつかった後に、和解できない人」のことである。さらに言えば、「人とぶつかった後に、和解の余地を残せない人」のことである。

 かつて、評論家の草柳大蔵が、次の主旨の言葉を残している。

 「最近の若い人は、なぜ、『顔も見たくない』という別れ方をするのか? なぜ、そうした『無残な別れ方』をするのか?」

 これは、決して、この言葉が語られた時代の「若い人」だけの傾向ではない。いつの時代にも、互いの心に深い亀裂を残す、「無残な別れ方」をする人間がいる。

 「他人に対する好き嫌いの激しい人」
 「一時の感情に振り回される人」
 「心の中の『小さなエゴ』の強い人」

 そうした人は、多くの場合、人と別れるとき、「無残な別れ方」をする。別れに際して、「心」を残し、「思い」を残すことのできない別れ方をする。そして、「香り」の無い別れ方をする。そのため、時間が過ぎゆくにつれ、互いの心が変わり、和解ができる時代を迎えても、和解ができない。

 それは、「自分の非を認められない」ことや、「相手を許せない」ためではない。かつての別れ際に「心」や「思い」を残さなかったため、さらには、別れ際が「無残」であったため、和解しようと思っても、互いの心の間の「深い亀裂」のため、もはや、和解に向かって歩を進める余地が無くなっているからである。

 例えば、別れ際に、「顔も見たくない」「二度と会いたくない」「もう信用できない」「裏切られた」「こんな人とは思わなかった」「見損なった」といった破壊的な言葉を吐いて、別れる。

 こうした別れ方は、将来、互いの心が変わり、互いの心に「和解をしたい」という思いが浮かんでも、過去に吐いた破壊的な言葉が「心の障害」となって、一歩を踏み出せなくなる。「あんなことを言って別れたのだから、いまさら…」といった心境が邪魔になって、一歩を進められなくなる。

 「人間関係が下手な人」とは、「人とぶつかってしまう人」のことではない。「人とぶつかった後に、和解できない人」であり、「人とぶつかった後に、和解の余地を残せない人」のことである。