拙著、『知性を磨く』(光文社新書)では、21世紀には、「思想」「ビジョン」「志」「戦略」「戦術」「技術」「人間力」という7つのレベルの知性を垂直統合した人材が、「21世紀の変革リーダー」として活躍することを述べた。
この第6回の講義では、「人間力」に焦点を当て、拙著、『人間を磨く - 人間関係が好転する「こころの技法」』(光文社新書)において述べたテーマを取り上げよう。

我々が、優れた「古典」を読んでも、なかなか「人間力」を身につけることができない真の理由は、「古典」を読むとき、その「読み方」を誤解しているからである

「人間を磨く」とは、「非の無い人間」をめざすことではない

 今回のテーマは、

なぜ、古典を読んでも、人間力が身につかないのか?

 このテーマについて語ろう。

 世の中には優れた古典と呼ぶべきものが数多くあり、また、そうした古典を読むことを薦める良書もまた、数多くあるが、その中で、しばしば用いられる言葉が、「人間を磨く」という言葉である。

 それは、誰もが惹かれる言葉であり、人生論の古典などを読むと、「生涯を賭けて人間を磨き、人格の完成をめざす」といった言葉が心に響き、そうした思いを心の片隅に抱きながら、道を歩んできた読者もいるだろう。

 この「人間を磨く」という言葉。

 それは、人生の経験を通じて、自分という人間を磨いていくこと。あたかも、玉を磨いていくと、「曇り」や「汚れ」や「傷」が消えていくように、自分の人格を磨いていくと、「非」や「欠点」や「未熟さ」が消えていく。その結果、磨かれた玉が光り輝き出すように、一人の人間として、自然に光り輝き出す。そして、その光や輝きが、周りの人を惹きつけ、多くの人々が周りに集まってくれる。

「人間を磨く」という言葉には、そうした響きがある。

 筆者もまた、若き日に、この「人間を磨く」という言葉に惹かれ、心の片隅にこの言葉を抱きながら、65年の歳月を生きてきた。

 振り返れば、一人の未熟な人間ながら、ささやかな人間成長の道を歩んで来ることはできたかと思う。そして、素晴らしい人々との縁も得ることができ、共に歩む人生が与えられた。

 しかし、自分自身を虚心に見つめれば、いまだ「人格の完成」には、ほど遠く、人間として多くの未熟さを抱えて生きていることを感じる。

 世の中には、「知識とは、風船の如きもの」という比喩がある。

 風船が膨らめば膨らむほど、外界と接する表面積が増えていくように、知識が増えれば増えるほど、未知と接する表面積が増えていく、分からないことが増えていく、という喩えである。

 されば、「人間成長もまた、風船のごときもの」なのかもしれない。

人間として成長すればするほど、人間としてめざすべき高みが見えてきて、自分の未熟さを痛切に感じるようになる。それも、一つの真実なのであろう。

 それにしても、若き日に惹かれた「人間を磨き、人格の完成をめざす」という言葉を思い起こすとき、いまだ、その「人格の完成」には、ほど遠く、人間としての未熟さを抱えて生きている自分の姿が、そこに、ある。

 そのことを嘆く思いになるとき、ふと、一つの言葉が心に浮かび、救われる。

 浄土真宗の開祖、親鸞の言葉である。

 「心は蛇蝎のごとくなり」

 親鸞ほどの宗教的人物でも、歳を重ねてなお、「人間の心は、へび、さそりのごときものだ」と述べている。どれほど人間としての修行を積んで歩んでも、心の奥に未熟さを抱えて生きるのが人間の姿だと語っている。

 もし、そうであるならば、心に一つの疑問が浮かぶ。

 はたして「人間を磨く」とは、「非の無い人間」や「欠点の無い人間」をめざすことなのだろうか?

 いや、そうではない。実は、人間は、自分の中に「非」や「欠点」や「未熟さ」を抱えたまま、周りの人々と良き人間関係を築いていくことができるのではないか? その関係を通じて、良き人生を歩めるのではないか?

 それが、65年の歳月を生きてきた一人の人間の、率直な思いでもある。

 そうであるならば、我々が古典を読むとき、「非や欠点の無い人間をめざして生きる」という視点ではなく、「非も欠点もある未熟な自分を抱えて生きる」という視点から、そうした古典を読むべきではないだろうか。

 しかし、こう述べると、おそらく、多くの読者の心には、一つの疑問が浮かんでくるだろう。それは、次の疑問である。

 「たしかに、世の中では、『人間を磨く』というと、しばしば、『古典を読め』『古典を読んで人間力を身につけよ』と言われるが、なぜ、古典を読んでも、なかなか『人間力』が身につかないのか?」