波瀾万丈のベンチャー経営を描き尽くした真実の物語「再起動 リブート」。バブルに踊らされ、金融危機に翻弄され、資金繰り地獄を生き抜き、会社分割、事業譲渡、企業買収、追放、度重なる裁判、差し押さえ、自宅競売の危機を乗り越え、たどりついた境地とは何だったのか。
本連載ではいち早く話題のノンフィクション『再起動 リブート』の中身を、先読み版として公開いたします。


月商一億円を達成──[1992年12月]

 さらに、僕たちはダイヤルQ2番組のコンサルティングや運用代行サービスも開始した。

 お金はあるがノウハウがない。でもダイヤルQ2の甘い汁を吸って儲けたい。そんな投資家向けに、コンピュータの開発や運用、コンテンツ、広告、そして報告業務まで、すべてをパッケージングして提供し、手数料をいただくサービスだ。墨田さんのやり方を僕なりに見習ったのだ。

「これからは、みなさんの代わりに機械が稼ぐ時代です」

 僕はクライアントにそう語りかけた。クチコミだけでクライアントはすぐに集まった。新市場の勃興期には、濡れ手で粟の儲けを狙ってあやしげな人たちが大挙して押し寄せる。毎日のように、あちらこちらで新しいサービスが産声をあげていた。

 フレックスファームは順調に成長を続け、1992年末には月間の売上が一億円を超えた。

 創業わずか一年八ヵ月で月商一億円だ。これで楽しくないわけがない。僕たちは成長路線をひた走っていた。

 一方、事業の急拡大にともない、現場はてんてこ舞いだった。人手を増やさなくてはいけない。管理するのも管理されるのも苦手だった僕は、前代未聞の人事施策を考え出した。社員の待遇を三種類だけに限定し、それぞれ固定給としたのだ。

「僕を含めて役員五人の報酬は全員一律で月80万円。管理職の給料は月60万円、一般社員は月40万円。職種は問わない。これで恨みっこなしね」

 給料に格差をつけ出すと、なんらかの評価が必要だ。それが面倒臭かったのだ。「なんとかする会社」を夢見ていた僕は、社員が気持ちよく働ける環境を用意するのが経営者の仕事だと思っていた。説明を聞いた社員はビックリしただろうが、金額的には大いに刺激になったようだ。製造原価は徹底的に削減したが、人には手厚くするのがフレックスファームの流儀だった。

 この制度をはじめてから、社員の紹介で続々と人が集まり、社内はベンチャー特有の熱気であふれかえった。採用広告を出すことなく、瞬く間に40名を超える体制ができあがった。

 人数が増えたので、本社をそれまでの緑が丘のマンションから、目黒区祐天寺の二フロアのビルに移転した。さらに、営業拠点として、新大阪に支店と銀座オフィスを新設した。