このコラム的な表現をするのであれば、まさに、「社会人材的発想」が足りないからこういうことが起こるのではないでしょうか。鬱憤晴らしのつもりで行った投票とは言え、その行動は社会的責任感の欠如です。

 日本も同じです。無責任で、同時に不条理な格差に悩む大衆(嫌いな言葉ですが)が、世の中の不安定さを助長させています。

 もちろん、支配階級、富裕層による社会感覚の鈍さは今に始まったことではありません。支配される側も支配する側も、皆一様に「社会」という観点、その意味の希薄さが今の世の中の問題の根底にあると感じています。「社会」と同時に死語となりつつあるのが「市民」です。

 さらに、トランプの大統領当選やイギリスの国民投票によるEU離脱の選択のわかりやすさと比べて、わが国の政治家の大衆誘導ははるかに巧みで、かつ隠微です。たとえば、都政改革を声高に訴える小池百合子都知事。

 都知事選を振り返ると、都政に不満がある人たちの思いから始まったものだったでしょうか?それは違うように思います。当時、相次ぐ都知事の不祥事が問題になっていましたが、都政そのものに対する都民の不満はほとんど耳にしませんでした。

 それがいいことだとは思わないのですが、選挙ありきで始まった都政改革の不自然さに我々は気づくべきでしょう。小池都知事は東京オリンピックの会場、施設問題と築地市場から豊洲市場への移転問題というわかりやすい論点をあげていました。結局オリンピックに関する施設問題は元の鞘に収まり、豊洲市場となる建物は土壌汚染対策の盛り土が行われたかどうかという実質上の問題は明確ではなく、ただ単にその建築プロセスが間違っていたからという理由で、都の現役職員、退職者の処分をするというトカゲの尻尾切りが行われた様相です。

 まさに、事実ではなく、信念や感情的表現により、そこに論点を作り上げてしまう「劇場型政治」の典型です。

 私は小池都知事の都政改革の内容について反対しているわけではありません。しかし、そのプロセスの裏にある政治的意図に思いを馳せるとき、心穏やかならざるものを感じざるを得ないのです。

 安倍首相においても、アベノミクスの3本目の矢が全く打たれていないことに対する疑問を口にすることは、むしろタブーになりつつあります。真実・事実が重要なのではなく、まるで「言ったもの勝ち」の状況になってしまっているのです。

 わが国でも緩やかに「Post-Truth」が起きているという認識を持つべきでしょう。