奈良興福寺と内山永久寺の惨状

 中でも奈良興福寺や内山永久寺の惨状は、筆舌(ひつぜつ)に尽くし難い。

 興福寺だけで二千体以上の歴史を刻んできた仏像が、破壊されたり、焼かれたりしたことが分かっている。
 僧侶は、ほとんど全員が神官に、文字通り“衣替え”したり、還俗することを強制された。
 経典は、町方で包装紙として使われるというゴミ同然の扱いを受け、五重塔は二十五円(一説には十円)で売りに出された。
 薪(たきぎ)にするために売りに出されたのである。
 多くの宝物(ほうもつ)は、混乱に乗じた略奪等によって散逸し、二束三文で町方に出回ったのである。

 因みに、現在の奈良ホテルや奈良公園は、当時の興福寺の敷地内である。興福寺と共に我が国四大寺の一つという格式を誇った内山永久寺に至っては、更に酷(ひど)いもので、徹底的に破壊され尽くし、今やその痕跡さえ見られない。

 姿を残していないのだ。この世から抹殺されてしまったのである。

「廃仏毀釈」とは、それほど醜い仏教文化の殲滅(せんめつ)運動であったのだ。
「復古」「復古」と喚いて、激しく「尊皇攘夷」を口先だけで主張し、幕府にその実行を迫ってテロを繰り広げた薩摩長州人は、このように古来の仏教文化でさえ「外来」であるとして排斥したのだが、政権を奪うや否や一転して極端な西欧崇拝に走った。
「尊皇攘夷」式にスローガンとしていうならば、今日からは「脱亜入欧(だつあにゅうおう)」だと豹変したのである(後に福澤諭吉が唱えた「脱亜入欧」は、経緯、主旨が異なる)。

 これほど激しい豹変を、それも昨日と今日の価値観が逆転するといった具合に短期間に行った民族というものも珍しい。
 どちらの態度も、己のアイデンティティを破壊することに益するだけであることに、彼ら自身が気づいていなかったのである。
 日本人は、テンション民族だといわれる。
 明治維新時に植え付けられたと思われるこの特性は、大東亜戦争敗戦時にも顕著に顕れた。
 その悪しき性癖は、今もそのまま治癒することなく慢性病として日本社会を食いつぶすほど悪化していることに気づく人は少ない。
 このことは、ほとんど近代政治家と官軍史観による教育の犯罪といってもいい過ぎではないだろう。

文部官僚・岡倉天心のまごころ

 奈良興福寺の仏像修復に精魂を傾けたのは誰か。
 彼の努力がなかったら、今日私たちは興福寺で仏像を鑑賞することができないのである。

 それは、文部官僚岡倉天心である。彼が、長州人を中心とした西欧絶対主義者たちによって職を追われたことと、それにも拘わらずその後も地道に仏像修復に当たらなかったら、今日の興福寺さえ存在していなかったことを、私たちは肌身に刷り込んで知っておくべきであろう。