東京・新宿にあるゴールデン街に繰り出したのは、地震発生から10日以上経ったある夜のことだ。
「地震後のゴールデン街を取材させて欲しい」と申し入れると、ママは二つ返事で承諾してくれた。ママとは、バー「風の森」の森美笛さんである。
壁には懐かしい任侠映画のポスターが飾ってあり、カウンターには『ガロ』や『平凡パンチ』『朝日ジャーナル』『洋酒天国』などの古本が並んでいる。10年前のオープン当初は、60年代に青春時代を過ごしたママと同世代の客が中心だったが、時の移り変わりとともに客層も変化し、最近ではその下の世代や日本のサブカルチャーに憧れる若者、外国人観光客なども多く通うようになっている。
「それにしてもなぜ、ゴールデン街なの?」
ママに聞かれても、ひとことではとても説明できない。理由を説明するには、少しばかり歴史を遡らなければならないからだ。
戦後、瓦礫の街を復興させた光を探し、
「新宿ゴールデン街」へ
戦後の混乱期、関東尾津組を率いていた尾津喜之助氏は「光は新宿より」というスローガンを掲げ、東京・新宿の東側に闇市を開いた。『新編 新宿ゴールデン街』(渡辺英綱著、ラピュタ新書)には、尾津が終戦から3日目に出した次のような新聞広告が紹介されている。
「転換工場並びに企業宛に急告!平和産業の転換は勿論、其の出来上がり製品は当方自発の”適正価格”で大量引き受けに応ず、希望者は見本及び工場原価見積書を持参至急来談あれ淀橋区角筈一の八五四(瓜生邸跡)新宿マーケット 関東尾津組」
尾津組の事務所には、広告を出した翌日から都内や近県の中小企業主が続々と詰めかけた。軍需産業の下請け業者はみな終戦で納入先を失い、大量の半製品を抱えて途方に暮れていたからだ。
尾津は軍刀の生産者には包丁やナイフを、鉄カブトの業者には鍋を作ることをすすめた。わずか12軒でスタートした闇市は、一年足らずの間に東京都内全域で5万9000軒にまで膨れあがったという。
「新宿マーケット」から後に「竜宮マート」と呼ばれるようになった屋台の街は区画整理によって移転し、現在のゴールデン街へと変化した。
筆者が知りたかったのは、瓦礫の街を復活させた「光」とは何かということだ。今回は、そのヒントを求めてゴールデン街にやってきた。