出光佐三との運命の出会い

「同じ会社なのに、これじゃあ敵同士(かたきどうし)みたいなもんやないか……」

 ストライキはとりあえず回避できたものの、いまだ労使対立の続く毎日に、幸一はついに不眠症となってしまう。

 74キロあった体重は52キロに減り、胸はもちろん背中までアバラ骨が浮きでてきた。肌も荒れてガサガサ。ワイシャツをぬぐと、背中から白い粉がぱらぱら落ちる。それは彼の皮膚であった。

 そのうち胃潰瘍となり、しきりに胃が痛む。

「私は労使紛争で死ぬ」

 彼は日記に何度もそう記している。

 そんな彼に転機となる出来事が訪れる。

 昭和37年(1962年)7月23日の夕方、たまたま時間が空いた彼は、河原町御池の京都ホテルへ足を向けた。京都経済同友会主催の講演会が開かれていたのだ。当時の経済同友会の代表幹事は、室町の老舗染呉服製造卸である千吉(ちきち)の西村大治郎。「経営者の人間像」という年間テーマを掲げ、このテーマにそって月1回、創業経営者に講演を依頼していた。

 幸一はこの日誰が講師か知らなかったが、会場に入って初めて、それが出光興産創業者の出光佐三であることを知る。

 出光は当時77歳。すでにその名は高い。立志伝中の人物を一目見ようと会場は立錐の余地もなかった。普通なら帰ろうかと逡巡するところだが、大きな悩みを抱えている幸一は藁にもすがる思いで、押しあいへしあいしながら立って聴くことを選ぶのである。

 やがてトレードマークでもある鼈甲(べっこう)の丸めがねをした出光が壇上に立った。目が悪いこともあって彼の小さい目にはさして力がない。声はよく通るものの、語り口は木訥(ぼくとつ)で田舎のおじいさんといった雰囲気だ。

 ところが講演が始まるやいなや、すぐに引き込まれていった。発想がユニークで実に魅力的なのだ。出光の言葉はまるで砂漠に降った雨のように、ささくれだった幸一の心にすっとしみこんでいった。