声が嗄れるほど言葉を闘わせたが、実際には、わずか3時間の交渉で決着していた。相手方の総経理に対して一歩も引かず、時には岩本まで置き去りにして粘り強く折衝する青年の脅したり宥めたりする姿に、岩本は内心舌を巻いた。
総経理が招待した日中合作を祝う昼食会の席上、次々に乾杯を強要してくる中国側の男たちを相手にする合い間を縫って、岩本は隆嗣へ感謝を述べた。
「本当にありがとう。あなたのお蔭だ」
青年は微かに首を振るだけで、相変わらず冷静な表情を崩さない。
「まだ学生とは信じられないな。立派な、いや、一流のビジネスマンだ。すぐにでも我が社の部長が務まるよ。しかし、一流大学の学生さんでは、ウチのような材木屋で働いてもらうわけにはいかないだろうねえ」
岩本が冗談に織り交ぜて希望を伝えたが、隆嗣は別の反応をした。
「これで、私の仕事は終わりましたね」
その冷めた言葉に不安を覚えた岩本は、探るように反駁した。
「え……これから工場のレイアウトや工程表の打ち合わせをするので、通訳を続けてほしいのですが」
「いいえ、もう交渉の峠は越えました。あとは、先方の通訳でも十分でしょう」
隆嗣の堅さは変わらない。岩本は問わずにいられなかった。
「何か急ぎの用事があるのですか?」
「はい。出来れば、すぐにでも行きたい所がありまして……」
その青年の顔に貼り付いた深い翳を見た岩本は、未練を抱きつつも、この恩人を引き止めるのは無理だと悟った。テーブルの下で財布を取り出し、8枚の1万円札を差し出す。
「いえ、1日2万円のお約束でした。私は2日間しかお相手しておりません」
岩本は強引に隆嗣の手に握らせた。
「いいえ、あなたは4日間かかっても出来なかったかもしれない仕事を成し遂げてくれました。これでも少ないくらいです」
深々と頭を下げた隆嗣は、その日の午後にはいなくなった。
(つづく)