被災地、石巻市を訪ねて
東日本大震災から2ヵ月以上が経過しました。そこで先日、宮城県石巻市で水産加工業を営んでいるある企業の社長に会うために現地を訪問しました。
「震災直後と比べると、随分整理されてきたでしょう」
明るい声で説明してくれる社長の話を聞きながらも、被災地周辺はようやく瓦礫の山を整理して車が通行できるようになってきたという程度で、まだまだ“復旧”には程遠い現実を目の当たりにしました。ただただ呆然と立ち尽くす、という表現がぴったり当てはまるような私の表情をみて、彼はこんな話をしてくれました。
「あの日の地震の揺れはこれまでに経験したことがない位の大きな揺れでした。津波警報に慣れがあった我々でも『さすがに今回は危ないだろう』と思い、なるべく高台へ逃げなきゃいけないと家族で避難したんです。TVでご覧になったかも知れませんが、押し寄せてくる津波は想像を遥かに超えたもので、瞬く間に町は波にさらわれてしまいました。
電気は一切点かない、電話も通じない、周りは海に囲まれてしまったような状況のなか、携帯ラジオを持っていた人から、福島の原発が爆発したといったニュースが耳に入ってきました。もう自分たちはダメなんじゃないか、日本もダメなんじゃないか、と真剣に考えたりもしました。そして、ようやく水が引いてくると、今度は残念ながら逃げ遅れた方々の遺体を目にすることになりました…」
逃げ遅れてしまった方々の絶望感を思えば、まだまだやれることがたくさんある、そう考えて前向きに頑張ろうと思っている人が多いからこそ、被災した皆さんは明るく振舞っているんだと思い知らされました。
行政の支援なく、進まない経営再開
なぜリスクマネジメントができていなかったのか
港にあった彼の会社を見に行くと、当然ながらそこも瓦礫の山。付近の地盤も少し沈下しているようで、周辺の業者の方々も、少しずつ出来る範囲で片付け始めている様子でしたが、経営再開に向けての動きもなかなか進まないのが実情のようです。
「このままの地盤の状態で、新たな工場や社屋を建ててしまっても良いのか」
「国、県、市はいったいどんな支援をしてくれるのか」
市役所には復興対策室が立ち上がっているものの、「市の予算の範疇ではどうにもならない」というのが現実です。よって、“国”に動いてもらうべく早急に復興計画を提出しようと動いていますが、その“国”の方は「菅おろし」といった政局絡みの話が蔓延しており、スピーディーに事を運べるような状況にはとても見えません。
こういった状況を話しながら、特に印象的だったのが次の社長のコメントでした。