「ふう……」ひとつ大きな溜め息を吐いた男は、緑色の50元札をテーブルに投げ出し、頼りないプラスチックの椅子から立ち上がった。出て行く男の背中に、店主の中年女性が「謝謝」と、感情の欠片も含まぬ言葉を掛けた。

 寒気に晒されながら路肩の一段高い歩道を左右に揺れながら歩いていた。使い古されて端々にほつれが目立つ黒い綿の外套が重くのしかかり、男の身体はいつも以上に右に傾いていた。

 肩に衝撃が伝わり、よろめいた男は、振り返って相手を睨みつけた。

「なんだてめえ、文句あんのかよ」

 男が口を開く前に、相手から大声を浴びせられた。真っ赤なダウンジャケットを羽織って肩をいからせた青年は、目に不満を顕して凄んでいる。目の前で揺れる金色に染められた長髪を、焦点の定まらぬ目でぼんやりと眺めた。

 昔なら、こんな若造の相手など片手で十分だったのにと、男は再び深い溜め息を吐いた。強烈な白酒の匂いを吹き付けられた青年は、その溜め息の中に自分を馬鹿にするような響きを感じ取って、思わず男の胸に手を伸ばした。

 その若い女性は、気が急いていた。元宵節の夕食には必ず顔をだすようにと、この真っ赤なBMWを買ってくれた父から言われていた。次はマンションも買ってもらおうと目論んでいた彼女は、父の機嫌を損ねるわけにはいかないと、さらにアクセルを踏み込んだ。

 突然歩道から倒れこんできた黒い影に気付いてブレーキを踏んだ時には、すでに遅かった。歩道で呆然と佇んでいた金髪の青年は、我に返ると、慌てて踵を返してその場を去った。

 一方、動顛したままで、未だに状況が理解できていない若い女性は、淡紅色のシルクコートの裾を翻しながら車から降りると、5メートルほど先に倒れている小汚い物体を一瞥しただけで、すぐにBMWのフロントバンパーに目を向けた。お気に入りの愛車に傷が付いてはいないかと、それが気懸かりだったのだ。

 アスファルトに後頭部を打ち付けて仰向けに横たわる男は、黒い顔の中にある目を見開いたまま、動かぬ瞳を摩天楼に挟まれた漆黒の夜空に向けていた。