野村のトップに就き、構造改革を推進してきた永井浩二・グループCEO。トップ就任から5年経った今感じる、構造改革の難しさ、トップの在り方について聞いた。(聞き手/ダイヤモンド・オンライン編集長 深澤献)
決して行くまいと思っていた証券会社に入った理由
――第1回のお話にありましたが、自分は絶対に行かない、と思っていた証券会社に入社されました。それはなぜでしょう?
永井 僕は現役で大学に入ったので、大学4年生の秋になっても、実はあまり就職する気になれなかったのです。でも友だちが内定をもらい出すと、ちょっと焦ってきました。それぐらい具体的に考えていなかったのです。
ゼミ仲間が先輩のいる野村證券から内定をもらい、「どうして野村なんだ」と聞いたら、「あそこはいいぞ、うまい飯をご馳走してくれる」と(笑)。
彼らも人事の人から「野村を希望する人がいたら連れてこい」と言われていたようで、私も連れて行かれたのです。そうしたら先輩が目茶苦茶におもしろい。キャラが立ち、活き活きとしている。
野村をめざしている学生たちも面白かった。集団面接で意見を述べているのを聞いていて、個性的で前向きで、能力もありそうで、「とんでもない奴らだ」と驚いてしまった。と同時に、「こんな奴らと仕事がしたい」と強烈に思ったのです。あんなにやりたくないと思っていた証券営業の仕事でもやるぞ、と相成りました。
――他社は回られたのですか。
永井 それはなかったですね。本当に、野村の面白い人たちと一緒に仕事がしたかった。ただ内定が出た後に、父から知り合いの別の証券会社の幹部を紹介され、「証券会社の仕事とはどんなものか」を伺う機会がありました。そのとき、「野村に行ったらリテールで大変だ。当社は法人に強く、ずっと東京で大企業を相手にする。これぞ証券ビジネスというものだ。どうだ、うちに来ないか」と誘われました。
結局は予定通り野村に入社するのですが、このときの「法人向けビジネスこそが証券ビジネスの神髄だ」という言葉がずっと頭にあって、入社してからは毎年のように法人営業部門、つまりインベストバンキング(IB)部門への異動を希望していました。
――「野村らしくない人物」と言われていたそうですね。
永井 そう言われたのは営業マンとしてのスタイルではなく、僕のものの考え方やキャラクターが野村マンのイメージと違っていたからでしょう。
若いときは本当にシャイで、知らない人といきなり話すのはすごく苦手でした。当時の証券マンのプロトタイプ、つまり物おじしないタイプとは正反対。少なくとも当時はそうでしたね、今は変わっちゃったかもしれないですが。
――証券の世界で生きていこうと覚悟を固められたのはいつ頃?
永井 従業員組合の委員長をやったときですかね。高松支店に4年、本店営業部に4年いて、組合専従を4年。その後半の2年間、委員長を務めました。
連載でも述べましたが、仕事の現場は、非常にモノカルチャーの世界であったのに対して従業員組合は老若男女、さまざまな経歴や経験を持った人たちの意見を集約していかないとまとまらない。今風に言えば、ダイバーシティで、これは大きな学びになりましたし、同時に、組合員をまとめていく中で会社から「お前なんかもういらない、と言われるまでやりきろう」という覚悟が生まれました。それが仕事への決意にもなりました。