生活保護の削減圧力で家族全員を困窮させる「扶養義務」の無慈悲生活保護費の削減を目的に、家族による扶養義務が強化される傾向にある。それによって家族全員が困窮するケースは多い。果たして現実的な考え方なのか(写真はイメージです)

家族やコミュニティの支え合いは
本当に貧困解消につながるのか?

 近年、特に2013年以後、生活保護は利用しにくい制度になる一方だ。「利用しにくさ」をもたらす施策は、数多くの方面から多重に設けられているのだが、その1つに、家族に対する扶養義務の強化がある。生活に困窮した人を親族が扶養すれば、生活保護の必要性は減るからだ。

 家族が愛によって支え合うことは、「そうしたい」と自然に思える関係性があれば、決して悪いことではないだろう。しかし、介護のための離職、さらに離職による貧困化は、働き盛りの人々にとって、自分自身の現在の生存・生活、さらに老後を困難に陥らせるリアルな脅威だ。子どもがいれば、子どもの将来の選択肢や可能性を狭めてしまう可能性もある。

 今回は、生活困窮者を支援する活動を続けてきた稲葉剛氏(一般社団法人 つくろい東京ファンド代表理事・立教大学大学院特任准教授)とともに、生活保護と家族扶養の問題を考えてみたい。福祉と社会保障を象徴する生活保護制度の方向性は、いずれ日本の福祉と社会保障すべての問題になり、日本のすべての人が直面する課題になるからだ。

 私は、「家族や地域コミュニティは、原理的に貧困を解決できないのではないか」と思っている。

 貧困とは、お金などの必要な資源の不足である「貧」が、様々な問題である「困」を生み出して「お金がない上に問題がたくさん」という状態だ。「お金はないけど幸せ」と言えるのなら、「貧」であっても「困」ではない。社会保障は、自ら「貧」を解決することが困難な状況にある人々のために、公共が現金や現物を給付する制度だ。

 その人々が家庭の中にいれば、あるいは地域の中にいれば、「貧」が解決するわけではない。全員の「貧」を足し合わせた資源不足が、家庭の中、あるいは地域にあるはずだ。不足している資源を、家庭や地域で調達することが難しかったから、「貧」が生まれているはずだ。そこに資源を投下する社会保障は、どうしても政府や公共の仕事になるしかないのではないか。稲葉さんと一緒に、考えてみたい。