そうか、それなら筋道が通っている。なぜなら、日本人の死亡場所の75%は病院。そこでは「老衰」を死亡原因と書かないのだから、当然、死亡原因としての老衰はわずか7.1%に止まっているのだろう。

 では、もし、ほぼ老衰とみられる症状の人が病院と自宅と違うところで亡くなったとすると、死亡診断書の死亡原因はどうなるのだろうか。

「病院では何としても病名を探り出して記される。自宅や施設で診ている在宅医療では老衰と書かれるでしょう」と答える医師が多かった。何ということだ。同じ症状で亡くなっても、死亡場所の違いで死因が変わってしまう。

 死亡統計の内容には限界がある、ということになりそうだ。病院のカルチャーがこの先大変わりすることはなさそう。在宅医療が浸透すれば、自然に老衰死の比重が高まっていくということだろう。

 病院と在宅医療のカルチャー(文化)は大きく異なるとよく言われる。「在宅医療は病院の延長ではない。生きることを全うしたい人の手助けをするのが在宅医療」と訪問診療に熱心な医師たちからよく聞かされる。

 看取りを最初から視野に入れて診察に当たり、日々の暮らしに伴走する。これに対して病院医療は、特定の臓器だけに拘り、その治療しか考えない。年齢を視野に入れて、人生の歩みを共にするかどうかでカルチャーが分かれてしまう。

「2年、3年と長く診療に携わっているからこそ老衰の過程を共有できる」と話す在宅医もいる。確かに、共有する年月は重要だろう。一方で、「終末期に入った2、3週間でも、診療の結果として老衰と書くこともある」という在宅医もいる。

 いずれにしろ、人間の最終章としての死を正視できるかにかかっているようだ。そういえば、現在、国が掲げる高齢者ケアの基本政策「地域包括ケア」には「死」が全く想定されていない。

「地域包括ケア」の法制化の根拠となった3年前の「社会保障制度改革国民会議」(会長・慶応大学清家篤教授)の報告書では、QOL(生活の質)と並べてQOD(死の質)の重要性を提言していた。だが、残念ながら厚労省の政策には反映されていない。病院の医療者にも、この提言は届いていないのだろう。実態は変わっていない。

 QOLのような外来語を持ち出さなくても、実は日本には、とてもいい死を表現する言葉がある。「大往生」だ。

「地域包括ケア」を一目で表わし、厚労省の労苦の結晶でもあるのが「植木鉢の図」である。

 その図の中に是非とも「大往生」を加えてほしいものだ。それも、本人の選択によって導かれた人生の最期、植木鉢が育てた「花」として描かれることを期待したい。

(福祉ジャーナリスト 浅川澄一)