ヤマザキナビスコ(当時)が最初にスポンサードした3年間は1992~94年に当たる。ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)が3連覇を果たしたこの3大会は、Jリーグブームにも乗って大成功に終わる。

 だが、いわゆる「ドーハの悲劇」によりワールドカップ(W杯)アメリカ大会への出場権を逃したことで、日本サッカー界の勢いに陰りが見えつつあった。

W杯での活躍で人気が復活
決勝には史上最多の観客

 続く95年は実はリーグカップは開催されていない。これは飯島がスポンサーを降りたわけではなく、Jリーグの過密日程によるものだった。

 最初の3年間に続く、96年からのヤマザキナビスコカップについて、飯島はどのように見ていたのか。

「92年からの最初の3年間はすごい勢いで走った。でも(96年からの)後の3年間はグズグズで、その後の(99年からの)3年間はそのレベルでそのまま推移した。スタートからの9年間はそういった状況でしたね」(飯島)

 Jリーグもバブルが弾け、それ相応の観客動員数に落ち着いて、地に足を着けた経営に移行しなければならなかった時期。ここからヤマザキナビスコカップが盛り上がりを見せ始める。それが2002年の大会だった。その一つの要因は、日本代表選手たちの活躍だ。

 国内リーグの盛り上がりは「日本代表のW杯での活躍が不可欠だ」との認識を持っていた飯島は、「やっぱりW杯に行くようになってから、本当に盛り上がってきたと思っています」と話す。2002年という年は、日本が初出場した1998年フランス大会に続く2大会連続の出場を果たした年で、自国開催となった「日韓共同開催」の年だった。

 自国開催の異様な盛り上がりの中、日本代表はベルギー、ロシア、チュニジアを相手に2勝1分けの好成績を残して予選リーグを突破。決勝トーナメントに進出して社会現象を起こす。