そして、玄白は老いの苦しみを書き綴る。多くの記述を割いているのは歯の悩みである。珍膳佳肴(かこう)、銘菓美味を食べ尽くしてきた身であってみれば、今さらこれといった望みのものはないけれど、歯がないと食べ物が口からこぼれてむさ苦しく、熱い物も食べられない。麺類などは食べやすいはずだが、少しずつ食べなければいけないのが気に入らない。魚も骨が面倒で、入れ歯を作ってみたが自然ではない……という記述が延々と続く。

 珍膳佳肴、銘菓美味を食べ尽くしてきたというあたり、〈おかずが1品か2品あれば満足してきた〉という割には、玄白は食べるのが好きだったのだろう。

 若いうちから歯のメンテナンスは特に気をつけたい。人間は長生きするようになったが、歯の寿命は昔のままだからだ。歯を失う原因は虫歯と歯周病。なかでも歯周病は糖尿病や心臓病と同じ生活習慣病に位置づけられている。成人の80パーセント前後が歯周病になっているというデータもあるが、歯を大事にすれば健康寿命を延ばすことに繋がる。

〈無益なる長命なり〉、『耄耋独語』の結びにはこんな言葉がある。人にとって長生きは無意味なのだろうか。

〈医事不如自然(医事は自然に如(し)かず)〉

 いや、玄白は最後の書にこの6文字を書き記している。人間による医事は自然に及ばない。希代の医師は長生きの末、真理ともいえる答えを得た。人生はあっというまに過ぎ去ってしまい、寿命は自然が決めることなのだろう。我々にできることは残された時間を大事に使っていくことだけだ。昨日の失敗は悔やまず、明日のことは心配しない。そんな風に生きた玄白が残した遺産は日本の近代医学の礎となった。

参考文献/『杉田玄白 晩年の世界』松崎欣一著、『杉田玄白』片桐一男著

(小説家・料理人 樋口直哉)