ワールドカップで2度目の指揮を執る岡田武史監督は、プレーができないことを承知の上で、怪我から復帰したばかりのGK川口能活(当時ジュビロ磐田、現SC相模原)をサプライズ招集。キャプテンに指名した上で、ピッチの外においてチームのまとめ役を託した。

 当時の岡田ジャパンは、ワールドカップイヤーに入って大不振に陥っていた。4月のセルビア代表との国際親善試合で0‐3、5月の韓国代表とのワールドカップ壮行試合では0‐2とともに惨敗。韓国戦後には日本サッカー協会(JFA)に対して、岡田監督が進退伺を出す騒動も起こった。

 JFAの犬飼基昭会長(当時)に慰留された岡田監督は、チームの大改革を断行する。大黒柱を中村俊輔(当時横浜F・マリノス、現ジュビロ)から本田圭佑(当時CSKAモスクワ、現パチューカ)へ、システムをボールポゼッション型の[4‐2‐3‐1]から堅守速攻型の[4‐1‐4‐1]へ変えた。

 さらには、守護神も楢崎正剛(名古屋グランパス)から川島永嗣(当時川崎フロンターレ、現FCメス)へ代わる。陣容がガラリと変わった中で、ゲームキャプテンもそれまでのDF中澤佑二(横浜F・マリノス)から当時26歳の長谷部へと変わった。

 長谷部にとっては初めてとなるワールドカップの戦いが、もう目の前に迫っていた。緊張と興奮が交差する中での大役拝命は文字通り青天の霹靂に感じたはずだ。見ている側にとっても、長谷部とキャプテンという肩書きにちょっとギャップを感じたことを覚えている。

 しかし、一連の大改革が奏功したチームは、カメルーン代表とのグループリーグ初戦を制して一気に生まれ変わる。続くオランダ代表戦こそ惜敗したが、デンマーク代表との最終でも勝利。下馬評を鮮やかに覆す快進撃で決勝トーナメント進出を果たし、日本中を熱狂の渦に巻き込んだ。

 残念ながら決勝トーナメント1回戦でパラグアイ代表にPK戦で涙をのみ、初めてとなるベスト8進出を逃した。それでも、文字通りチーム一丸となって戦った4試合で務めたゲームキャプテンを、長谷部は「プレッシャーを感じることなく振る舞えた」と表現したことがある。実際にピッチ上で中澤、ピッチ外では川口やリザーブに回った楢崎、中村から受けたフォローに心から感謝していた。

なぜ長谷部は5人もの監督から
重用され、信頼を置かれてきたのか

 そして、南アフリカ大会後に発足した、イタリア人のアルベルト・ザッケローニ監督に率いられた新生日本代表では川口や楢崎、中村、中澤らのベテラン勢が選外となる。自覚と責任感が芽生えたのか。チームキャプテンを託された長谷部は、生粋のチームリーダーとしてのオーラを放ち始める。

 セリエAのチームで長く指揮を執ったザッケローニ監督は、長谷部に全幅の信頼を置き続けた。ある時には、長谷部へこんな言葉をかけている。