1913/14年冬学期から1914年夏学期まで、シュンペーターはアメリカのコロンビア大学に招聘され、交換教授として滞在した。初めてのアメリカである。『経済発展の理論』の出版によって大西洋を越えて勇名をはせたシュンペーターに着目し、コロンビア大学に招いたのはジョン・ベイツ・クラーク(1847-1938)だった。

シュンペーターを招聘した
クラークとは?

 アメリカには40歳以下の経済学者を顕彰するジョン・ベイツ・クラーク賞(1947-)があるが、この名称にその名を残しているのがクラークである(※注1)。

 クラークはヨーロッパの限界革命とは別個に限界効用理論を考察したことで知られる。アメリカで近代経済学を創始した1人なのだ。

 クラークは、「限界生産力的分配論を完全競争静態における均衡理論として構築したのであった。」また、「静学と動学の区別を理論経済学に初めて明確に導入し、静学としての価値・分配論を明確にするとともに、動学的要因を検討して、経済動学の重要性をあらためて認識し直し、それに向けての理論的発展を促すきっかけをつくったのであった。」(田中敏弘による。『富の分配』解題 ※注2)

 クラークは1872年から1875年にかけてドイツ帝国のハイデルベルク大学などに留学し、カール・クニースのゼミナールに参加している。クニース(1821-1898)はドイツ歴史学派の創始者の一人であり、当時のドイツ経済学界の超大物である。ウィーン大学のカール・メンガーが歴史学派に対して論争を仕掛けたのはその直後である。

 ウィーン大学でシュンペーターの師であったフリードリヒ・フォン・ヴィーザーやルートヴィヒ・フォン・ベーム=バヴェルクもウィーン大学卒業後にクニースのゼミに参加したことがあり、ここでクラークは2人と出会っている。

 クラークはドイツ語も堪能になり、オーストリア学派やドイツ歴史学派についても熟知することになる。しかし、のちに理論経済学に立ち向かったことなど、シュンペーターの指向にもよく似ている。とくに動学を重視するところなど、まったく同じだ。

 ドイツから帰国するとクラークはスミス大学、母校アマーコスト大学を経て、1895年にコロンビア大学政治経済・社会科学部教授に就任し、経済学・統計学を担当した。

 シュンペーターの『経済発展の理論』(初版1912年)が出版されると、クラークはすぐに賛意を表する書評を書き、「これによって、この若きオーストリア人がアメリカの経済学者たちへ紹介されることになった」と、ハーバード・ビジネス・スクールのトマス・マクロウ先生は書いている(※注3)。

 ちなみに、シュンペーターは1908年にクラークの著書『経済理論の本質』(Essentials of Economic Theory)の書評を「国民経済・社会政策・行政学雑誌」第17号(Zeitschrift fur Volkswirtschaft,Sozialpolitik und Verwaltung)に書いており、クラークについてよく知っていたと思われる(※注4)。つまり、お互いに著書を読み、年齢は離れているものの共感していたのだろう。

コロンビア大学で親交を深めた
ミッチェルとセリグマン

 1913年10月、オーストリアのグラーツから英国へ渡り、リヴァプールから船でニューヨークへ向かった。英国人の妻グレイディスは渡米せず、英国にとどまった。すでに夫婦間は冷え込んでおり、別居することになったらしい。