日本のワインには長年、「薄い」「甘い」といった悪評がはびこってきました。しかし、原料であるブドウの栽培まで立ち返り、試行錯誤を重ねて、ロンドンで開催される世界最高峰のワインコンクール「デキャンタ・ワールド・ワイン・アワード」で日本初の金賞を受賞した山梨のワイナリー、通称“グレイスワイン”(中央葡萄酒)をご存じでしょうか。この伝統ワイナリーを営む父娘が世界に挑み、苦難と焦燥、ときに喜びを分かち合ってきた家族の物語『日本のワインで奇跡を起こす』(ダイヤモンド社、7/12~発売)から「はじめに」をご紹介します。娘・彩奈さんのワイン造りへの情熱と、家族や地元の町への思いを感じていただければ幸いです。

 山梨県の勝沼町。ワインがお好きな方なら、一度は聞いたことがある名前だと思います。ここ勝沼で、日本ワイン産業の歴史ははじまりました。

1000年の歴史をもつ日本固有種のワイン用ブドウ「甲州」のポテンシャルはもっと引き出せる、という三澤彩奈さん(写真:疋田千里)

 わたしは、1923(大正12)年に創立された勝沼(現・甲州市勝沼町)のワイナリー(ワイン醸造所)に生まれ、勝沼で育ちました。当ワイナリーの正式名称は中央葡萄酒株式会社ですが、祖父が名づけた銘柄名「グレイスワイン」が通称となっています。

 祖父や父が地元のブドウから造るワイン「甲州」に人生を懸ける姿を見て育ったわたしは、自然とワイン醸造家という仕事に憧れを抱くようになりました。そして今もなお、この小さな町・勝沼で暮らし、山梨をワイン産地にしたいという三代にわたる夢を追いかけています。

「甲州」は、カスピ海と黒海にはさまれたコーカサス地方に発祥した、ワイン専用のブドウ品種の系統をもちます。シルクロードを通って中国大陸を渡り、日本へたどり着いた、ミステリアスなブドウです。

 わたしは、「日本のワインなんて」と言われ続けた時代から覚悟を重ねた祖父と父の志を引き継ぎ、五代目として世界に挑戦することになりました。

 2014年、数多あるワインコンクールのなかでも最難関といわれる「デキャンタ・ワールド・ワイン・アワード」で、「キュヴェ三澤 明野甲州2013」が日本初の金賞を受賞しました。その報しらせを受け取ったとき、甲州が世界の舞台に躍り出ていくような心地がしました。

 ニュージーランドのソーヴィニヨン・ブランも、近年、注目を浴びるようになったイギリスのスパークリングワインも、ロンドンのワインコンクールからサクセスストーリーがはじまったと聞いています。

 しかし、受賞以上にわたしの心を捉えたのは、4ヘクタールの自社畑から試行錯誤の末に、小房で糖度の高いブドウ「甲州」が結実したことでした。このブドウからは、今までの甲州とは格段に違う「ワイン用ブドウ」の味わいが感じられたのです。「甲州ってやっぱりすごい」と、震えるほどの感動が込み上げて……そう、あのとき、何かが変わる気がしたのです。

「地獄へようこそ」

ワイン醸造家として家業に入ったときに父からそう言われて以来の切磋琢磨の日々が、確かに報われた瞬間でした。

 わたしはワイン醸造家になったとき、技術を究めたいとは思っていましたが、初めから世界をめざしていたわけではありません。ただ技術者として、本物を造りたかった。そして、こういうワインが好きだという、ワインの味わいに対する強い美学のようなものもあり、それを表現しようと邁進していたら、いつの間にか世界に手が届いていました。

 そんな頑固なわたしですが、心が折れそうなときに思い出すのは、いつも同じ光景です。

 フランスに留学していた当時、父がボルドーまで会いに来てくれたことがありました。遅くまでワインを飲んで、翌朝、学校があるから「じゃあね」と別れたとき、一度だけ振り返ると、父の背中が丸く小さく見えました。それまで、ワイン醸造家として絶対的だった父の存在。初めて感じた父の老いに戸惑いながら、今ここでわたしがワイン造りをやめたら、父はどれだけ無念だろうと感じました。

 わたしにとって、ワイン造りとは、ワイナリーと家族への愛情そのものです。勝沼という小さな町に住んでいると、周りは昔から知っている人たちばかりです。子どものころ、登下校の道で川に落ちたり荷物を忘れたりすると、”ご近所さん”が助けてくれました。わたしに勝沼の歴史を教えてくれたのも、町の人たちです。

 困ったときに支え合うのは、地方ならではかもしれません。今でも、収穫や選果(不良果を取り除く作業)に人手が足りないとなると、近所のブドウ農家の女性たちが、「彩奈ちゃんのためなら」と手伝いに来てくれます。助け合って生きる、この町の暮らしがわたしには合っているようです。

 ですから、これからも、家族と、ワイナリーの社員と、町の人たちと、世界中の応援してくださる方々と、技術者である自分自身のために、ワインを造り続けたいと思います。

 祖父も父も、いったんは大企業で働いた経験をもちます。しかし、祖父も父も、勝沼での暮らしを選びました。わたしたち三代の生き方を思うとき、胸に去来するのは大好きな「スモール・イズ・ビューティフル」という言葉です。

 父の書斎で、ドイツ生まれでイギリスの経済学者であるF・アーンスト・シューマッハーの書籍にこの言葉をみつけて以来、わたしの価値観とも呼応して、大切にしています。グレイスワインも、「甲州」というブドウ品種も、世界のワイン業界から見れば小さな存在ですが、わたしは誇りに思っています。

 今回上梓した『日本のワインで奇跡を起こす 山梨のブドウ「甲州」が世界の頂点をつかむまで』は、社長を務める父・茂計とともに、「甲州」のポテンシャルを信じて、どのようにブドウ栽培、ワイン造りに試行錯誤してきたのか、これまでの軌跡とそのときどきの思いをまとめたものです。前半の第1部は父がこれまでの歴史を振り返ってまとめ、後半の第2部はわたし・彩奈が近年の挑戦を中心にご紹介する構成になっています。

 この本を手に取った方々が、郷土や家族に想いを馳せ、「スモール・イズ・ビューティフル」-そんなふうに思っていただけたら幸せです。

---2018年7月 中央葡萄酒株式会社 取締役 三澤彩奈