「そのときから、また父の落ち込みが始まった。前よりも100倍もひどかったわね。でも、今度は誰も慰めたり、かまってあげる人はいなかった。私も東京で仕事があったしね。1人で立ち直るしかないじゃない。そして1年後に突然、父が私を訪ねてきたの。1枚の手書きの図面を見せられた。今日の模型のもとになった図面よ」
早苗は焼酎のグラスを両手で包み込むように持って見ている。
ひと口飲んで、グラスをテーブルに置いた。
「あの震災のときの政府の迷走ぶりと、いつまでたっても復旧すら進まない状況を見て、自分も何かしなくちゃと思ったんじゃないの。誰もかまってくれる人はいなかったしね。中央政府の役割の重要性を心から感じたとも言ってたわ。自分ができることは首都移転を完成させて、次の災害に備えることだとも。あんな状況を二度と繰り返しちゃダメだと思ったのね。そのうちに長野の山奥に引っ込んで、色々やってたみたい」
森嶋は無言で聞いていた。どこか達観したところのある村津の言動が、わずかながら理解できたような気がした。
「そしてあるとき、突然うちの事務所にやって来て長谷川先生に話しだした。長谷川先生とは役所時代から知り合いだったの。形あるものはいずれなくなる。それが世の常だ。形や既成概念にとらわれていても仕方がない。世界にも、ポンペイ、ペルセポリス、アレクサンドリア、長安、栄華を誇った都もすべて滅んでしまった。邪馬台国なんて、せいぜい1800年前の都市なのに、どこにあったかすら謎に満ちている。東日本大震災で東北の人々が築き上げてきた形あるモノはなくなった。唯一残ったのは、人の心と伝承すべき文化だ。そして今、日本に必要なのは安全で機能的な首都だ。どんな災害が起こっても充分機能できる都市だ。それさえ残せば都市の形なんてどうでもいい、って言い出すのよ。私は呆れて聞いてたけど、長谷川先生とは意気投合しちゃってね。それから毎週のようにやって来て、話し込むようになった」
早苗は一気に話した。
「日本には京都、奈良、東京。各地に誇れる文化が数多くある。そう言うものにとらわれず、新しいものを作るべきだ。そして、それが終わりじゃない。都市も進化の一過程にあるモノにすぎない。あまり首都の形にこだわって、この先ずっと残るものを造ろうなんて思ってると、夢物語に終わってしまう。だからその時代に合った最高のものを造ればいいってことになったの。たとえそれが一過性のものであってもね。それがあの模型よ。現在の最高の科学と技術、機能性と合理性が詰め込まれてる。それでいて、人の温かさも兼ね備えたもの」
森嶋はすべてを納得することはできなかったが、あの都市模型が違ったものに見えてきたのは確かだった。
「父は国会や省庁の建物などは入れものにすぎない。重要なのはその中に入り、動かしていく人だ、とも言ってたわ。腐ったドンブリになっちゃダメだって。私、笑っちゃった。いくら立派な建物を作っても、内容が伴わなければ意味がないってことでしょ。国会議員や自分たち公務員のことを言ってるのね。自分もその1人なのに」
「でも、その通りだと思う。今まで、こんなに金のかかるものはできっこないというのが定評だった。それがクリアされると、そんなに夢物語じゃない」
「そうよ。日本の象徴が建物であったり、都市である必要はない。自然だって、絵や彫刻だって、日本には自慢できるものが山ほどあるわ」
早苗はよく食べ、よく飲んだ。そして時折り声を上げて笑った。
森嶋はその声を聞いて顔を見ているだけで、ここしばらく感じたことのない開放感を覚えた。気がつくと、2時間近くがすぎていた。
「うちの事務所は泥酔してなきゃ、出入りは自由なの。泥酔の判断は各自で違うんだけどね」
そう言って、早苗は森嶋に笑いかけると事務所に帰っていった。
森嶋は早苗の姿が角を曲がって見えなくなるまで店の前に立っていた。
(つづく)
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