超金融緩和がもたらすカネ余りを背景に、巨額の投資マネーが怪しげな企業に流れ込む。フェイクで強欲な奴らがバブル再来を謳歌する一方、貧困層は増大し、経済格差は広がるばかり。そのうえ忖度独裁国家と化したこの国では、大企業や権力者の不正にも捜査のメスが入らない──。
そんな日本のゆがんだ現状に鉄槌を下す、痛快経済エンターテインメント小説が誕生! その名も『特捜投資家』。特別にその本文の一部を公開します!
第3章 傲慢な投資家(6)
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「実際の勤務は午前5時起床、6時、コンビニで買ったサンドイッチを食いながら電車と徒歩の警察幹部宅への朝駆けから始まります。午前8時、社に上がり、夕刊記事の執筆。原稿はデスクの容赦ないダメ出しと追加取材が入り、ヒーヒー言いながら書き直し。昼飯は5分で立ち食いソバをかっこみ、午後はヤクザと見紛う強面刑事に怒鳴られながら凶悪事件の取材と、朝刊用の記事執筆です」
分刻みで複数の仕事をこなした、あの激務の日々が甦る。
「夜は前科者のネタ元とメシ。もちろん自腹。別れ際、渡す小遣いも自腹。午後10時、警察幹部宅の夜回りの途中、スマホで朝刊記事のゲラを確認し、デスクに取材の進捗状況の報告。ここでデスクからきびしいつっこみをいくつも食らい、ドツボに。先輩に誘われ、仕事と安月給の愚痴をこぼしながら一杯やって午前2時、泥のように疲れ切った身体を引きずり、帰宅。束の間の睡眠をむさぼり、一日がやっとこさ終わり。社会部記者の月の残業時間は優に200時間を超えるでしょう」
「残業代だけで食えるな」
ふざけるな。怒りをこらえて説明する。
「記者職は専門業務型の裁量労働制の対象です。つまり、自らの裁量で自由に取材に動けるとの前提になり、会社側は高額残業代を払う必要がない。原則、事前に決めたみなし労働時間分の支払いだけで済みます。これが崩れたら新聞社はどこも経営が成り立たない。たとえ残業200時間でも、みなし手当は実質80時間程度。差し引き120時間がサービス残業になります」
説明しながら、あまりの搾取に目が眩む。城は苦笑まじりに言う。
「取材中も頻繁にデスクからチェックの携帯電話が入るんだろう。新聞社はまず、自分とこの労働実態を徹底取材し、どかんと大型特集記事を打つべきだな。『蟹工船』も真っ青の、奴隷労働のルポルタージュが一丁上がりだ。ピュリッツァー賞も夢じゃないぞ」
『蟹工船』か。たしかに。有馬は自嘲まじりに返す。
「高潔なクオリティペーパーを自任する読日新聞も、その実態は超ブラック企業です。いまどきの優秀な学生が来るわけがない。ウソ八百を並べて熱心な就活学生を誘い込むなど、言語道断でしょう」
「それで辞めたのか」
「入社案内が原因で辞めるほど単純じゃありませんよ」
ほう、と城は興味津々の表情で問う。
「ならば正義感あふれる記者さんはいかなる理由で辞めたんだ? 過重労働がイヤになったのか? それとも激減する給料か?」
有馬の脳裡に、あの絶望の光景が甦る。
「人事部から編集局に苦情が行き、おれは不満分子の烙印を押されて社会部から異動です。放り込まれた先は新セクションで、《ハイパーメディアビジネス編集部》」
城は半笑いで言う。
「大新聞社らしからぬネーミングだな。これぞ最先端、夢と希望にあふれたITセクションって感じだ。おれには栄転にしか思えないが」
「新聞記事を装った、いわゆる記事広告を量産する部署ですよ。部数と広告の激減で追い詰められた幹部連中が“手っ取り早く儲かる記事広告を取ってこい”と設けた、従来の記事広告セクションのバージョンアップ版だ。社内の口の悪い連中は“リストラ部屋”と呼んでいましたが」
甦る屈辱を噛みしめて語る。
「ここに配属された記者連中は新聞ジャーナリズムの崩壊を肌で感じながら、記事という名の広告を取りに企業を訪問。シビアな営業ノルマに追われ、慣れない愛想笑いを浮かべ、しつこく出広を頼み込み、頭を下げまくる日々を送るわけです」
大手企業の広告セクションの連中から浴びせられたひどい言葉の数々はいまも耳に残る。
“新聞記者はいつから広告屋になったんだ”“一般紙は広告効果が稀薄だからまったく興味なし”“ウェブ広告のほうがはるかに効果がある”“貧すれば鈍するとはこのこと”。
新聞はオワコン、と言わんばかりの罵詈のオンパレードだった。
そういえば医療情報サイトで大儲けした新興IT企業に営業をかけたことがある。虎ノ門の小奇麗なオフィスで応対に出てきた若い担当者は“紙の媒体など古代の遺物”とけんもほろろだったが、のちに医療記事のメチャクチャな無断転用や会社ぐるみの盗用、素人ライターによる荒唐無稽な記述(地縛霊、呪いが重大疾病の原因になる、など)が明らかになり、大騒ぎになったあげく倒産。
が、もとはといえばコンサル会社出身の若い女性が立ち上げた医療情報サイトを新興IT企業が50億円で買収し、化粧を施しただけのスカスカのサイトだ。いまにして思えば、あの勘違いIT企業はベンチャーバブルの徒花だった。
「まともな新聞記者ならやってられないでしょう。おれは1ヵ月で尻をまくりました」
もう新聞の時代は終わった、との捨てゼリフを残して。
「それだけか」
はっ? 城が射抜くような眼差しを向けてくる。
「読日を辞めた理由はそれだけなのか?」
硬質の目に疑念がある。この男は疑っている。読日を辞めたほんとうの理由──。凄腕投資家の洞察力に舌を巻き、有馬はたまらず目をそらす。5秒、10秒。腋に冷や汗がにじむ。
「どうでもいいけどな」城が放り投げるように言う。
「おれには関係のない話だ。忘れろ」
有馬は唇をぎゅっと噛む。
「それで転職したのか?」
城は何事もなかったように次の質問を繰り出す。
「読日を辞めて即、フリーになるほど自信があったわけじゃないだろう」
この男、とことん鋭い。有馬は平静を装って答える。
「請われる形でIT企業のネットニュース編集部に」
知人からメガバンク出身のオーナーを紹介され、年収1600万で熱心に誘われた。読日の2倍近く。しかも取材費、交際費は別途支給。断る理由がなかった。
なるほどね、と城は得心顔で言う。
「若い連中はスマホやタブレットで読むニュースアプリがメインだろ。新聞紙は“情報が古い”“通勤電車の中でかさばって読みにくい”“手がインクで汚れる”とさんざんだ。日本の新聞業界が墨守する宅配制度など“溜まった古紙の処理に困る”と問題外。悲惨なもんだ」
新しい時代のメディア、と希望も新たに転職したのだが──。有馬はネット編集部の信じられない情景を反芻して語る。
「独自取材はほとんどなく、記事は外部の媒体の転用。つまり新聞やテレビ、ラジオ、通信社、週刊誌からピックアップした記事を買うわけです」
記者とは名ばかりの安直な仕事。
「外部媒体のニュース、トピックスを24時間体制でチェックし、ネット用に簡潔にまとめ、アップする業務がメインです。記者も20代の若者が大半で、他人のフンドシでメシを食うことに疑問を抱かないお気楽な輩ばかり。しんと静まり返った、工場のクリーンルームみたいな無機質な部屋で終日、ヘッドホンで音楽を聴き、ガムをくちゃくちゃ噛みながらパソコンを操作するだけです。あいつらは隣席の同僚との会話、打ち合わせもメールやLINEですませるんですよ」
混沌とした熱にあふれ、締め切り間近となれば罵声や怒号が飛び交う新聞社とは別世界。クールを気取った爬虫類が住む氷の惑星だった。
「ジャーナリズムのジャの字もない編集部に、さすがに嫌気がさしましてね」
ここは2週間で退社した。以後、食えないフリーだ。
ほう、と城が微笑む。
「潔いんだな」
わかってくれたか。気分がいい。が、次の言葉に絶句した。
「おれには負け犬の愚痴、遠吠えにしか聞こえないが」
(続く)