“アップルと言えば、スティーヴ・ジョブズ”と言われるように、“交響曲と言えば、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン!”です! 音楽家の人生から歴史をよみとく新刊『クラシック音楽全史 ビジネスに効く世界の教養』より、まずはハイドンとモーツァルトの足跡から振り返ります。この時代、エリート主義のなかで知的遊戯として発展した音楽が、啓蒙思想の広がりにしたがって、高度な教養をもたない人が聴き手になるなど、環境変化を迎えます。そんな過渡期を生きた彼らは、しかしその才能と不屈の精神で稼ぎを増やしていったようです。

 “クラシック音楽と言えば交響曲”という時代が、いよいよ登場するのが18世紀後半からです(※17)。神に捧げる音楽や、オペラやダンスの脇で、彼らの織りなすドラマを盛り上げるべく陰で伴奏として支えていたオーケストラに光があたり、楽器だけの集団が奏でる「交響曲」が主役となっていきます。

 この「交響曲」がクラシック音楽界の帝王となるベースをつくったのが、「ウィーン古典派」(※18)と呼ばれるハイドン、モーツァルト、べートーヴェンです。現代のビジネス界でアップルと言えばスティーヴ・ジョブズと言われるように、「交響曲」と言えば、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなのです。

 バロック時代、エリート主義のなかで高度な知的遊戯として発展した音楽は、古典派になると、啓蒙思想の発展を背景に、高度な教養をもたない人が潜在的な聴き手として想定されるようになりました。「知識がなくても楽しめる」というシンプルな形式に舵が切られます。この時代のヒーローといえるベートーヴェンについては次に譲り、まずは、ハイドンとモーツァルトの足跡を辿ってみます。

30年の召使時代を経て大成功
車大工の息子だったハイドン

ハイドン

 フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732~1809年)は車大工の息子で、あまり裕福な家の出身ではありませんでしたが、両親は音楽好きでした。5歳の頃、ハイドンの義理の叔父で教会学校の校長先生と合唱団長を務めるフランクがハイドン家を訪ねてきました。ハイドンの勉強と音楽教育の面倒をみる、という申し出でした。これを受けたハイドンは、親元を離れてハンブルクへ行き、それ以来、共に暮らすことはなかったそうです。

 小さい頃にウィーンの聖シュテファン大聖堂の少年合唱団に入り、あまりにも美しい声だったのでカストラート(高音域が歌える男性歌手。少年期に手術することで人工的に声変わりを止めた)にされそうになり、合唱団を辞めたというエピソードが残っています。

 合唱団を離れてからは、屋根裏部屋で必死に勉強し、路上演奏やピアノ教師で小銭を貯め、努力を重ね、ようやく宮廷音楽家の職を掴み取ることができます。29歳から58歳まで30年間にわたって、ハンガリーの名門貴族エステルハージ侯爵家に仕えることになりました。

 宮廷音楽家は、かつらか辮髪を着用し、飾りのついた鮮やかな色の制服を身に着け、白い靴下をはくよう義務づけられていた、といいます(※19)。私たちが音楽室で見る音楽家の肖像画を見ると、多くがかつらをかぶっていますが、それは、そのように命じられていたためだったのです。雇い主の命じる音楽を作曲し、その許可なしに他人のために作曲したり、旅行へ行くこともできませんでした。待遇や雇用は保証されていましたが、邸内の地位はとても低かったのです。1798年の『ウィーン新聞』の広告には、「音楽召使求む」と召使という言葉が使われています。

「音楽家1名を求む。ピアノを上手に弾き、歌にも優れ、両方のレッスンができること。この音楽家はまた、召使の義務をも果たさなければならない。」(※20)

 ハイドンは30年間にわたってエステルハージ家のためにどしどし曲をつくり、その作品数は1000曲に及ぶと言われています。気がつけば、交響曲は104曲もできあがっていました。モーツァルトが41曲、ベートーヴェンが9曲と、数だけ考えても圧倒的に多いのです。

 そして、1790年に宮廷楽団が解散されると、ついにハイドンはフリーの作曲家となります。「いつも召使でいるのは本当に悲しいことです。私はみじめな生き物だったのです!(※21)」と綴ったゲンツィンガー夫人宛の手紙が残っています。

 晩年、興行師ザロモンよりロンドンに招かれ、交響曲12曲(交響曲第93番~第104番)を演奏します。これには招聘者の名前をとり「ザロモン交響曲」という呼称がついています。ザロモン交響曲時代に、ついに、今につながるオーケストラの形が確立されました。新天地ロンドンでハイドンは熱狂的に受け入れられ、オックスフォード大学から名誉博士号を授与されるなど、大成功をおさめます。ギャラも音楽召使時代よりかなり上がったようです。ウィーンでも不動の地位にのぼりつめました。

 それでもハイドンは、自身が昔とても貧しい時に色々な方に助けてもらったことをずっと覚えていたといわれます。彼の遺書には友人や使用人、親戚らが十分に暮らしをしていけるよう遺産の配分が綴られていました。また晩年、慈善コンサートでハイドンの曲が演奏され多くの寄付金が集まることも、喜びのひとつでした。

 1808年にハイドンの『天地創造』が演奏された時は、ウィーン大学に軍隊が出動したという逸話も残っています。それは初演に殺到する群衆から、歩行困難で車椅子に乗せられた巨匠ハイドンを守るためでした。「ハイドン万歳!」の声がこだまし、つめかけた貴族やブルジョワ市民の中にはベートーヴェンもいました。