スパルタな父のもと規律ある生活で
フリーランスとして稼いだモーツァルト
「誠実な人間として、神にかけて申し上げますが、あなたのご子息は私が名実ともども知るもっとも偉大な作曲家です。彼はよき趣味をもち、そればかりか作曲の知識をこの上なくおもちです(※22)」。
これは 1785年2月、弦楽四重奏の集いで、ハイドンがヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756~91年)の父レーオポルト・モーツァルトに語った有名な言葉です。
ハイドンとモーツァルトは、24歳違いでしたがお互いを尊敬し合う良き友でした。モーツァルトが36歳の若さで先に逝った時、ハイドンはモーツァルトの良き理解者宛に「彼の死によって、私はしばらくの間、何も手につかず、唖然としていました。神がこんなにも急に、あのかけがえのない人物を、あの世に必要だと思し召されたことが信じられません(※23)」という手紙を書いているほどです。
よく知られているように、モーツァルトは早熟の天才でした。
幼少期から、約10年間にわたる演奏旅行が始まります。
この旅を決めた父レーオポルト・モーツァルトは、ザルツブルクの宮廷楽師でありヴァイオリン教師としても有名で、彼がつくった『ヴァイオリン教本』は数カ国語に翻訳され、今も教材として使われています。レーオポルトは、並外れた息子の才能を見出し、この才を伸ばすことこそ自分の責務と信じていました。ともに旅をし、息子がその才能を存分に発揮できる職に就けるよう、すべてを整えたのです。
とはいえ、当時の長旅は命がけでした。生まれ故郷のザルツブルクから、ウィーン、ミュンヘン、イタリア、パリと大旅行を馬車で移動しましたが、当時はヨーロッパ中に森があり、森賊なる強盗がいたうえ、宿のベッドは湿っていて健康にも劣悪な環境だったといいます。
そうした状況にも負けず、モーツァルトは旅先で、オペラやオーケストラなど、新しい音楽、言葉をどんどん吸収していきます。そして行く先々の演奏では大きな賛辞を受け、「神童現る!」と王族や上流社会から愛されました。
長い旅の後、再びザルツブルクの地に辿り着いたモーツァルトは、ザルツブルク宮廷音楽家になります。しかし大司教と喧嘩をして、二度とザルツブルクには帰らないと宣言。最後の10年間はウィーンで生活を送ります。モーツァルトは、貴族の令嬢や婦人から高いレッスン料をとり、音楽会を開き、作曲をして出版社に売るなど、フリーランスとしてかなりの収入を得ていたようです。オペラは1回書くと今のお金にして、400万~500万円もの収入(※24)を得られたそうです。
フリーランスとして順調に稼いだモーツァルトの1日の様子を、父宛の手紙から垣間見ることができます(※25)。
「朝六時にはもういつでも髪の手入れをします」
「七時にはすっかり身なりを整えています。それから九時まで作曲」
「九時から一時まではレッスン」
「それから招待されていないときは食事をしますが、よばれているときは二時か三時ころに食事となります」
「晩の五時ないし六時前にはなにも仕事はできません(※26)」
「(音楽)会がなければ九時まで作曲です」
「それから僕は愛するコンスタンツェのところに行きます」
「それから十時半から十一時に帰宅します」
「急な音楽会とか、あちこちからよばれるかもしれないあやふやさのために、晩に作曲できないかもしれないので、僕は眠る前になにか作曲しますが、そんなことでしょっちゅう一時までやっていて、それからまた六時には起きるのです」。
朝6時に目覚めてから、夜中1時までびっしりと作曲三昧です。しかも、当時はロウソクで明かりをとっていた時代です。夜中過ぎまで作曲するには、安いロウソクではなく、白く明るい高価なロウソクが必要なので、ロウソク代もかなりかかったのではないかと、木村尚三郎氏と海老沢敏氏の対談(※27)で語られています。ハイドンの場合は、エステルハージ邸で給料とは別にロウソクが支給されていました。またモーツァルトは、お仕着せをあてがわれない独立した芸術家として、みずからを表現するため、外見に気を遣わなければならず、ウィーンではザルツブルク時代とちがって、衣服費含めて生活費がとても高くついたようです。
音楽家の立ち位置が、教会や宮廷の音楽召使という立場から自分で稼いでいくようになる過渡期に、ちょうどモーツァルトはいました。モーツァルトが成人する頃には、宮廷に雇われ食べていく以外に、オペラを作曲してヨーロッパ中を行脚して稼いでいた作曲家たちが出始めていました。
その多くがイタリア人だったのも、18世紀後半はヨーロッパでイタリア・オペラが大ブームだったからです。モーツァルト時代のもっとも有名な作曲家は、おそらくジョヴァンニ・パイジェッロ(1740~1816年)でしょう。お芝居が大好きでオペラを愛していたモーツァルトにとって、彼らの活動はとても魅力的に映ったに違いありません。
生まれてから父レーオポルトの指示通りに動いていたモーツァルトが、最後まで父の反対を押し切って自分の意見を通したことが2つあります。ひとつは、フリーランスの音楽家としてやっていくこと、もうひとつは、コンスタンツェと結婚したことでした。
稼ぎのよかったモーツァルトが、なぜ晩年には一文無しになってしまったのか。諸説ありますが、よくわかりません。ただし、お金でなく、私たちを最高に幸せにしてくれる、気高い音楽をこの世に遺してくれました。
世界最高峰のピアニストであり指揮者のミハイル・プレトニョフ氏(1957年~)が最愛のお母様を亡くされ、そのショックで体調を崩し、東京フィルハーモニー交響楽団との公演が中止になったことがありました。その後、来日されたマエストロ(※28)・プレトニョフが言った言葉を思い出します。「モーツァルトとシューベルトの音楽が救ってくれた」と。モーツァルトの曲もシューベルトの曲も、大声でガンバレとは言いません。そっと私たちに寄り添ってくれる音楽だ、と私は感じています。
※18 1770~1810年頃、ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェンの三大巨匠、および彼らと同時代にウィーン周辺で活動した作曲家たちを指す。同前『新編 音楽小辞典』より
※19 後藤真理子著・監修『クラシック音楽ガイド』成美堂出版、2017年
※20 H・C・ロビンズ・ランドン、海老澤敏監修『モーツァルト大事典』、平凡社、1996年
※21 後藤真理子監修『一冊でわかるクラシック音楽ガイド』成美堂出版、2004年
※22 H・C・ロビンズ・ランドン監修『モーツァルト大辞典』海老澤敏日本語監修、平凡社、1996年
※23 朝川博・水島昭男『音楽の名言名句辞典』東京堂出版、2012年渡邊学而『大作曲家の知られざる横顔』丸善、1991年
※24 木村尚三郎『成熟の時代 十八世紀の西欧と現代』日本経済新聞社、1982年
※25 同上
※26 貴族に呼ばれて、食事を共にするため。
※27 後藤真理子監修『一冊でわかるクラシック音楽ガイド』成美堂出版、2004年
※28 「マエストロ」は指揮者への敬称。