クラシック音楽はイタリアやフランスを中心に発展していきますが、ついに17世紀末、ドイツにその中心地が移っていきます。立役者は、同じ1685年生まれのヘンデルとバッハ。後にイギリスに帰化して活躍したヘンデルと、ドイツ国内でコツコツ努力したバッハの生き方は対照的でしたが、どちらも大きな功績を残し、ベートーヴェンも「昔の巨匠のなかで、ドイツ人ヘンデルとセバスチャン・バッハだけが真の天才を持っていた」と語ったといいます(※1)。音楽家の人生から歴史をひもとく新刊『クラシック音楽全史 ビジネスに効く世界の教養』から、まず今回は、ヘンデルの生涯を紹介しましょう。素晴らしい音楽を書き、お金を稼ぎ、猛烈ビジネスマンだったその一生とは?

亡くなったときの銀行残高は2~3億円?!

 ルネサンス、バロック音楽の時代を通じて、音楽の中心地はイタリアとフランスでした。一方、ドイツは30年戦争(1618~48年)のためにすっかり荒廃していました。そんな30年戦争後に復興し始めた17世紀末のドイツで、バッハとヘンデルは同じ1685年に生まれ、18世紀前半に活躍します。ふたりはバロック時代の代表的な作曲家と言えましょう。停滞したドイツの音楽も、この時期に大きく花開きました。

没後の資産は2億円超!?豪快なやり手ビジネスマンだった音楽家ヘンデルヘンデルの肖像画

 今回はバッハより1カ月早く生まれたゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685~1759年)について紹介します。ヘンデルは、とにかく豪快で、やり手のビジネスマンだったようです! 猛烈に働き、素晴らしい音楽を書き、お金を稼ぎ、駆け抜けた74年の生涯でした。亡くなった時の銀行残高は1万7500ポンド(現在の価値で2億~3億円相当か)あった、と言われています(※2)

 ヘンデルは、宮廷理髪師であり外科医の父が63歳の時に、当時のブランデンブルク=プロイセン領のハレで生まれます。父は、息子が音楽の勉強をすることを断じて許しませんでした。このため、ヘンデルは鍵盤楽器を屋根裏部屋にもちこみ、家族が寝静まった後、ひっそり練習をしていたそうです。

 ヘンデルはハレ大学の法科に進みますが、17歳の時、ハレの大聖堂にオルガン奏者として任命され、そこでまじめにオルガン奏者を務めます。

 そして、ヘンデルは自分の足で世界をまわっていきます。まずは18歳からハンブルクへ。すぐに、最初のオペラ『アルミーラ』を発表します。ハンブルクで3年間しっかり学びつつお金を貯めた後は、オペラを生んだ国イタリアへ。カトリック教会のための美しい音楽を書き、お金持ちの公爵たちや枢機卿に可愛がられ、次々作品を生み出します。1706年から1710年までイタリアに滞在し、オペラ、カンタータ、オラトリオを作曲しました。オペラ『アグリッピーナ』はヴェネツィアで初演されています。オペラを上演すると会場は熱狂に包まれたと言われ、ヘンデルはイタリアで大スターになりました。

 ヘンデルはドイツへ戻るとハノーヴァー宮廷楽長に就任し、イギリスへわたります。イギリスではオペラ『リナルド』を初演しました。『リナルド』中のアリア(独唱曲)「私を泣かせてください」は、皆さんもどこかで聴いたことがあるかもしれません。大変に美しく人気のある曲なので、多くのソプラノ歌手がレパートリーにしています。

お金の集まるイギリスへ帰化し大成功!

没後の資産は2億円超!?豪快なやり手ビジネスマンだった音楽家ヘンデルテムズ川上のヘンデルとジョージ1世。『水上の音楽』は王の舟遊びの際に演奏された

 ヘンデルは、活動拠点をイギリスに完全に移し、1727年に42歳でイギリスに帰化します(この時、名前も英語綴りに変えたようです!)。なお、ハノーヴァー時代の雇用主である選帝侯が後にイギリス国王ジョージ1世として即位したため、王と楽師がともにドイツ人からイギリス人になったのです。

 当時、ロンドンは投機ブームで、貴族の多くは株投資で富を増やす実業家でした。1719年にイギリスの富裕な紳士たちが「王立音楽アカデミー」という興業組織をつくり、ヘンデルと2人のイタリア人作曲家を雇用しました(※4)。アカデミー会員は“シルバー・チケット”(金属製)を購入でき、このチケットがあれば21年間、シーズン中は毎晩オペラを鑑賞できるという特典がついていました。なぜ21年間だったのか知りたいところですが、とにかくスケールが大きいこと!

 この音楽アカデミーは、出資額に応じて配当を支払う合同株式会社でした。ヘンデルはこの組織のもとで数百にのぼるオペラを上演したので、その経験からライヴビジネスに熟練していったようです。この組織は9年しか続きませんでしたが、ヘンデルはめげません。仲間とともに事業を引き継ぎ、新ロイヤル音楽アカデミーを立ち上げます。ヘンデルの音楽興業ビジネスの手法は、後のモーツァルトやベートーヴェンも大いに参考にしたはずです。

 しかし、イギリスでイタリア語によるオペラの売れ行きが不調になると、ヘンデルは英語の歌詞がついたオラトリオを作曲するようになります。オラトリオは英語で歌われるため、イタリア語オペラになじめなかった中産階級から広範な人気を得ることができたからです。しかも、オラトリオは前述したとおり、宗教音楽の一種で、宗教的なものを題材に歌詞がつけられ、独唱や合唱、管弦楽で演奏されるので、オペラよりずっと上演費用も少なくて済むメリットもありました。

 ヘンデルのオラトリオのなかでも、 有名なのは(※5)『メサイア』でしょう。この中で歌われる「ハーレルヤ! ハーレルヤ!」というフレーズを、どこかで耳にしたことがありませんか。この曲の初演は、アイルランドのダブリンという街でしたが、ヘンデルがやってくるというので街中大騒ぎになったそうです。当時地元の新聞は「『メサイア』は音楽史上、最高の作品」であると伝えています。ヘンデルは先の興業ビジネスで多額の負債を抱えますが、これを救ったのも『メサイア』の収益だったと言われています。