子ども虐待対策は
もう手遅れなのだろうか
11月は、「児童虐待防止推進月間」だ。今年2018年の標語は「未来へと 生命を繋ぐ189(いちはやく)」(189は児童相談所全国共通ダイヤルの番号)。あと1週間で11月は終わってしまうけれども、児童虐待はいつでもどこでも防止される必要があるだろう。
今年は、3月に東京・目黒区で発覚した5歳児の痛ましい虐待死事件があり、7月20日には政府が「児童虐待防止対策の強化に向けた緊急総合対策」を公表するという、スピード感ある展開があった。日本の児童虐待対策の歴史に残る年となるかもしれない。
しかし、悲惨な子ども虐待事件は、特別な親の特別な行動によって起きる、特別な問題なのだろうか。もちろん、子どもの生命や身体や健康は、最優先で守られなくてはならない。だからといって、「親に対する強制力が決め手」と割り切ろうとすると、どこかにモヤモヤが残ってしまう。
そこで今回、京都市の山科・醍醐地区で1980年代から活動を続けている「特定非営利法人山科醍醐こどものひろば(以下「こどものひろば」)」の理事長を務める村井琢哉さんに、疑問を率直にぶつけさせていただいた。
「こどものひろば」の活動目的は、地域のすべての子どもたちが心豊かに育つこと、および、社会環境・文化環境をより良くすることだ。大切にしていることは、子どもと大人の“共に育ちあいたい”という願いであり、自分らしく生きることのできる人との交わりだ。「こどものひろば」という名称ではあるが、必ずしも、「子ども」「子どもの貧困」「虐待」を強く焦点化しているわけではない。その立ち位置から、昨今の虐待対策への動きは、どう見えるだろうか。
村井さんは開口一番、こう語る。
「遅きに失した、と思います。連鎖を重ねすぎた結果、ほぐせるものもほぐせなくなっているのではないでしょうか」
いわゆる「虐待の連鎖」は、もはや社会常識だろう。石井光太氏の著書『「鬼畜」の家―わが子を殺す親たち』(新潮社)には、社会に強い衝撃を与えた3つの虐待死事例の背後が描かれている。我が子を悲惨に虐待死させた親たちは、自分自身が子ども時代に育ちや学びの機会を奪われていたことが多い。そして祖父母世代も、子どもを健全に育てられない状況にあったことが少なくない。家族の課題は世代ごとに濃縮されていき、あるとき、子どもの悲惨な虐待死として世の中に現れる。