また、元交際女性の「昨年4月から8月末までに同様のトラブルが10回以上あった」とする供述調書が読み上げられた。起訴された3件について、検察側は「いずれも自分の車が追い越されたことに腹を立て、文句を言おうと無理やり止めさせた」とし、その後も「降車を要求したり、ドアを蹴ったりして執拗(しつよう)かつ悪質」と指摘した。

 7日の第5回公判。弁護側から「どう償うか」と問われ、あきれたことに「分からない」と回答。謝罪文には「事故がなければ彼女と結婚する予定でした。彼女は体が弱く自分が支えたいと思っていたので、事故のことはお許しください」などと記されていた。

 筆者は謝罪文の内容を聞いて、耳を疑った。置かれた立場をわきまえない、あまりの身勝手さ、低い思考レベル、幼稚さに精神的な“異常”さえ感じ「もしかしたら、心神耗弱で罪に問えないのではないか」とさえ感じてしまった。

 しかし、この事件に対する世間の憤りは、石橋被告本人の言動だけではなく、その“行為”を罪に問えない可能性があった理不尽さにあるのは間違いない。

 そして、ネットの書き込みなどでは、「殺人罪に問えない」ことに対する不満が渦巻いていた。

 なぜ問えないのか。

「未必の故意」で問えた殺人罪

 結論から言うと「問えなかった」のではない。「問わなかった」のだ。筆者の後輩である全国紙社会部デスクと見解は一致した。「交通法規に固執したからだ」と。

 高速道路の追い越し車線に無理やり割り込み、停車させた。そこに高速で走行している後続車が追突する可能性…。その結果は分別が付く年齢なら子どもでも理解できるだろう。

「未必の故意」という言葉は聞いたことがあると思う。

 確定的な意思を持って犯罪を行うのではなく、結果的に犯罪行為になっても構わないと思って犯行に及ぶことを指す。殺人事件の場合、明確な殺意がなくても、相手が死ぬ危険性を認識していれば、故意として殺人罪が適用される。

 今回の事件は「未必の故意」が成立しないと言えるだろうか。前述の通り、幼稚で身勝手、低い思考レベルではあるが、石橋被告はまがりなりにも普通に社会生活を送っていた。