日産にとって
最大の「負の遺産」

 こんな状態では、経営はうまくいくはずがない。

 日産の90年代後半の没落は、日産の経営者が内向きのこの労組トップに大きな労力を費やしたことが大きな要因だった。

 日産にとって「塩路天皇」は、最大の「負の遺産」である。

 前述した日産英国工場進出は、当時の石原俊社長が「グローバル10計画」としてグローバルで日産が10%シェアを奪還するための戦略だったが、塩路労連会長は83年に川又会長と組んでこれに反対する会見を行ったのだ。

 当時、経団連記者クラブにいた筆者は、俳優の森繁久彌氏と日産が共同所有していた佐島マリーナで、石原社長ら日産首脳との記者懇談会に参加したところ、塩路労連会長もわざわざ労働省記者クラブの記者を同じ日程と場所に招き、自分の権力を誇示する光景を目にしたこともある。

 結局、「塩路天皇」の存在という社内権力の「二重構造」で、日産の生産性は低下し、ライバルのトヨタとの力の差は開く一方となっていった。

 繰り返しになるが、20年以上に及んだ労組のトップが牛耳るという異常な企業風土は、90年代後半の日産業績不振から経営破綻寸前に至る大きな要因となったといえよう。

 かつて労組のトップが権勢をほしいままにして、人事権や管理権まで握って日産の経営全体を厳しい状態に陥らせたことは、当時もコーポレートガバナンス(企業統治)が欠如していた証左にほかならない。

 最近、『日産自動車極秘ファイル2300枚』を著している経営コンサルタントの川勝宣昭氏(当時の日産広報課長)と、久しぶりに会って懇談する機会があった。

 長い間、日産で権力を持ち過ぎた塩路天皇による弊害に対して、立ち上がった一人がこの川勝氏である。

 結局、塩路天皇は「金と女性」のスキャンダルがきっかけとなり、86年に労働組合から引退した。

 だが90年代以降、トヨタとともに日本の自動車産業のリーダーだった日産から輝きは失われた。