千鶴子が生まれ育った時分、岡田屋は波乱を迎えていた。11歳のとき、父が急逝。母が大黒柱となる。その母も、千鶴子が20歳のときに帰らぬ人となった。その上、母に代わって店を仕切っていた長女も亡くなってしまう。結果として、23歳の千鶴子が株式会社岡田呉服店の代表を務めることとなった。当時彼女には婚約者がいたが、長男・卓也を一人前にするまでは結婚を延期することも決めた。

◇結婚を経て再出発

 1948年、卓也は早稲田大学を卒業し、岡田屋の代表取締役に就任した。2年後には卓也・千鶴子ともに結婚。岡田千鶴子は小嶋千鶴子となった。

 彼女は結婚を機に岡田屋の経営から身を引き、大阪の住吉区へ住居を移す。そして永年の夢であった「本屋」を開店する。女性店主として界隈で評判だったという。

 しかし結局、1959年には四日市に戻ることになった。なぜなら当時岡田屋は、津市の中央に進出、近鉄四日市駅前に百貨店をオープンするなど、成功をおさめながらも競争にもまれていたからだ。

◇人材確保と社員教育

 卓也の目標は、日本で小売業のチェーン化をめざすことであった。そんな卓也を、人事部門をはじめとする管理部門の総責任者として支えたのが千鶴子だ。

 店舗数を増やすには、何より人材が必要だ。千鶴子は自ら学校をまわり、人材確保に奔走した。新卒採用を本格的にスタートさせ、女子社員の戦力化、パートタイマーの積極的な雇用などにも取り組んだ。

 同時に、躾と知識に重点を置いた社員教育にも注力した。日曜日に休めない女性社員のために、終業後に「お茶」や「お花」を習わせもした。結果、高校からはトップクラスの生徒が推薦されるようになるとともに、「嫁をもらうならオカダヤさんの店員をもらえ」という評判がたつようになったという。

 1964年には、高校卒の男子社員を対象に、企業内大学OMC(オカダヤ・マネジメント・カレッジ)を発足させた。小売業初の取り組みだった。OMCでは人間形成のための教養課程と経営学を中心としたカリキュラムが組まれた。

◇退任まで

 千鶴子と岡田は、価格決定権をもつメーカーに対抗すべく、合併による会社拡大をめざした。伊勢の「カワムラ」や静岡の「マルサ」、豊橋の「浦柴屋」との業務提携・合併に加え、1969年には兵庫のフタギと大阪のシロと合併してJUSCOが誕生した。