「凡庸な結論」の迫力がすごい、本気の経済書

 その日は新宿の紀伊國屋書店本店にいた。仕事で必要な本があり、普段はあまり足を運ばない経済や政治の棚に行こうとしていると、平台に並んだ本が目に留まった。パッと見た瞬間、「わ。これは人文書や文芸書の文化圏では絶対にありえない装丁だ」と思ったことを憶えている。

 そして決定打があった。2つもあった。まずは「娘」。私には4歳の娘がいて、Twitterでは四六時中娘のことを書いているから、キーボードで叩く最多頻度の文字はダントツで「娘」になる。そして「父」と来た。「父が娘に語る」? 経済を語るのか。

 父である私が娘に語れない最難関は経済のことだとかねてから考えてきた。娘がもっと大きくなって、給料のことや税金や貯金や……「株って何?」とか聞かれたらどうしよう。そう思ってきた。父で娘で経済と来たらもうこれは出会いじゃないか。今日紀伊國屋書店に来たのは神の思し召しではないかと半ば本気で考えた。これがもし「母が息子に語る」だったらおそらく、その日私は買っていないと思う。

読む人の「顔」を変える

 ……と、何をグダグダ書いているのかというと、『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』(ヤニス・バルファキス著、関美和訳)という本は、はるか圏外からいきなりやってきて、なにかしら人々の心のやわらかい部分をヒットしてしまう本なのではないか、ということが言いたいのである。

 経済書を読む素養もセンスもない私が一気読みし(自慢ではないがこれまでに一気読みできた経済書などただの1冊もない)、といってビジネスマンたちが「なんだこんな入門書みたいな本」とばかり敬遠しているかというと全然そんなこともなく、とても売れている本であるらしい。

 ということはつまり、普遍性があるということだ。そしておそらく、と私は考える。しょっちゅう経済書やビジネス書を読んでいる人たちも、この本を読んでいる時は少し様子が違って、オフィスよりも自宅の、公園の、海辺のような空気の中で、誰かのパパだったりママだったり、友人だったり娘だったり息子だったりする顔になっているのではないかと。

8万年以上前から身近な話まで

 出発点は、「どうして世の中にはこんなに格差があるのか?」という疑問だ。それを、2015年のギリシャの経済危機の中、財務大臣を務めた著者が、十代半ばの娘に語って聞かせる体裁になっている。

 だから、ティーンに話して理解できるくらいの平易さ、というのは言うまでもなく本書の最大の魅力になっているわけだけれども、そればかりでなく、時間軸をグンとワイドに拡げ、8万年以上前から視野に入れて語られるそのスケール感に、なんともいえない風通しの良さを感じてしまう。

 よほどのサバイバル巧者か、文明の外でも生きられる知恵者でもない限り、誰だって収入や財産がなければ生きていくことはできない。だから経済というものが、この世に生ある限り、万人に関係のあるものだということくらいは、私も理解していたつもりだ。

 しかし物々交換の時代からずっと下って、「金融」という実体のないものがこれだけ肥大化してしまった現代では、経済は日銭の計算からどんどん遊離してしまい、高度化・専門化を極め、右も左もサッパリわからない世界になってしまったと感じていた。

 経済とは、難しい数式などもスラスラ理解できる人が「予測」を立てて当たったり外れたり(たいていは外れているようだが)する小宇宙で、自分が娘を寝かしつけた後にこうして原稿を書いて稿料をいただくような行為とはあまり関係のない次元のことだと決めつけてしまっていたようだ。