バブル期に全盛期を迎えた
「新幹線通勤」ブーム

 このジレンマから抜け出そうという試みが「新幹線通勤」であった。1987(昭和62)年10月3日付毎日新聞は「地価暴騰の東京を脱出して、宇都宮、高崎、小田原、静岡などの地方都市に一戸建てマイホームを建て、新幹線で都心の会社に通勤するサラリーマンが猛烈な勢いで増えている」として、「通勤費がかさんでも、東京の高額家賃やローン地獄に比べ、経済的にはずっと楽」「物価が安く、子どもたちもゆったり暮らせる」など、新幹線通勤族の声を紹介している。

 東京~三島、上野~宇都宮であれば所要時間50分強、座れるだけでなく、車内に電話が設置されているというのも当時の売りだったようだ。

 新幹線を使った通勤は、1980(昭和55)年から通勤定期券に自由席特急券を組み合わせた利用が解禁され、1983(昭和58)年に新幹線用通勤・通学定期券「フレックス」が発売開始して、徐々に広がっていった。

 政府も都心の住宅不足・価格高騰に対処すべく、新幹線通勤を推進して都心から100キロ圏外への定住を促す事態となり、1989(昭和64)年1月1日から通勤手当の非課税限度額が月2万6000円から5万円に引き上げられた。企業も積極的に通勤費を支給したため、新幹線の定期利用者数は1985(昭和60)年から1991(平成3)年の間で約10倍に増加した。

 そうすると新幹線にも「通勤ラッシュ」問題が発生する。1990年当時、平日の東京駅に朝9時までに到着する「こだま」は5本で、すぐに大幅な増発は難しかったので1編成の定員を増やすことになり、JR東海は1989(平成元)年以降、「こだま」用編成を12両から16両に増強した。

 同様に東北・上越新幹線では、当時のターミナルである上野駅に9時までに到着する各駅停車タイプの「あおば」が5本、「とき」が4本の計9本であった。1992(平成4)年に東京駅延伸開業を果たすと定期利用者は一層増加したため、JR東日本は速度よりも座席定員を重視した「オール2階建て新幹線」の開発に着手し、1994年に12両編成で定員1235名の「E1系」、1997年に8両編成で2編成併結時の定員1634人の「E4系」としてデビューしている。