子育て中の親の悩みが幸せに変わる「29の言葉」を紹介した新刊『子どもが幸せになることば』が、発売直後に連続重版が決まり、大きな注目を集めています。
著者であり、4人の子を持つ田中茂樹氏は、20年、5000回以上の面接を通して子育ての悩みに寄り添い続けた医師・臨床心理士。
本記事では、本で紹介できなかったエピソードを、特別公開します。(構成:編集部/今野良介)
「あんたはいつも遅れるんやから、早くしなさい!」
小学3年生の男の子、Aくんの母親の相談でした。
相談の内容は、次のようなものでした。
学校に行くときや、サッカーの練習に行くときなど、家を出る前に毎回親が注意しないと、忘れものがとても多い。つい今朝も、サッカーの練習に出かけようと子どもが靴を履いているとき、「歯は磨いた?」と聞くと「あ! 忘れてた!」と靴を脱いでのんびりと歯磨きにいこうとして、見てみると水筒もバッグに入れてなくて、キッチンに置かれたまま。
「そんなにのろのろしてたら、みんなを待たしてしまうやろ! あんたはいつも遅れるんやから、早くしなさい!」と大声で怒った。
そこでAくんがちょっと不満そうな顔をしたのがきっかけになって、他のことまで合わせて、ボロボロにAくんをののしってしまった。泣きそうになったAくんが出て行ったあとで「朝から私にあんな言われ方したら、一日中嫌な気分だろうなぁ……」と反省したけど、明日も同じように怒ってしまうと思う、と。
歯は磨いたほうがいいし、水筒を忘れないほうがいいのは当然です。みんなを待たせて迷惑をかけるよりも、時間にきちんと間に合うほうがいいに決まっています。
しかし、小言を言い続けて、子どもが家庭で楽しく過ごす時間を奪ってしまうことも、大きな問題だと思います。毎日が楽しくなくなって、学校に行く元気をなくしてしまった子どもを、再び元気にすることは非常にたいへんなことであると、私は診察で毎日感じています。
子どもが学校に行くのはあたりまえだと思っているお母さんお父さんは、元気がなくなって、子どもが学校に行けなくなるなんて、夢にも思っていないのです。
そこで、Aくんの母親には、次のような提案をしました。
毎回注意しないと歯磨きを忘れるのであれば、叱らずに、ましてや怒るのではなく、適当なタイミングで「歯磨きしようか」と声をかけることにしましょう。そのうちに、何ヵ月後か何年後かわからないけれど、注意しなくてもAくんは自分から磨けるようになるだろうから、今は、親と子の両方が嫌な思いをする原因を1つでも減らすために、そう決めましょう、と。
忘れ物に気がついたときにも、叱らずに、「忘れてるよ」と淡々と指摘してあげる。そして母親も気がつかないまま忘れものをして帰ってきたときも、叱るのではなく「それは困ったやろうね、つらかったねぇ」などと、なぐさめてあげましょう。そのうち、自分で注意するようになりますよ、と。
この提案に対してAくんの母親は、「いま、これだけ注意していても、忘れ物も遅刻もほとんど毎回なのですが、そんなことで大丈夫でしょうか?」と不安そうでした。
母親が不安になるのもわかります。しかし、子どもが自分自身で気にかけるようにならないと、いつまでもできるようにならないのは明らかです。
叱られるからやっているのでは「忘れ物をして困ったな」と思うのではなく、「お母さんに怒られる。困ったな」としか考えないでしょう。失敗して困るのは親ではなく自分自身だという体験をAくん自身が少しずつしていかないと、それこそ、いつまでたっても自分から気をつけるようにはならないでしょう。
Aくんのその後の経過を、少しだけ書いておきます。
母親は注意したくなるのを、がまんして見守るようにしました。水筒を忘れてコーチにお金を貸してもらってお茶を買ったり、ユニフォームを忘れて行き試合に出してもらえなかったりと、忘れものはその後もありました。でも、だんだんと、Aくんは言われなくても自分から前の日に準備するようになりました。
ある朝のこと。Aくんが水筒を忘れたまま出て行ったことに気がついて、母親は自転車で追いかけて、途中で追いつき、渡してあげたそうです。
「Aはすごくうれしそうに『母さん、ありがとう!』と言ってくれたのです。あの子が、私にありがとうと言ってくれたのは久しぶりでした。Aはすぐ元気に歩き出しました。小さな背中に大きなカバンを背負って。一生懸命歩いて行くあの子を見送っていたら、なぜか、泣けて泣けてしかたがありませんでした」
そう話す母親の表情は、とても優しそうでした。聞いている私も涙が出ました。
Aくんを見送りながら彼女が感じたのは、子どもの「独立」だったのだろうと思います。いつか子どもは自分のもとを離れて一人で生きていくことになる、それをはっきりと予感したのではないでしょうか。
ずっと一緒にいられるような気がしていますが、やがて子どもは別の暮らしを始めるのです。それまでのほんのわずかな時間を、親も子も、できるだけ楽しくすごそうではありませんか。
子どもが、「自分の家は楽しい家だったなぁ」と、いつか思い出せるように。