プロ野球のペナントレースは中盤戦に突入。セ・リーグは巨人と広島が首位を争うが、意外にも頑張っているのが、昨年最下位に沈んだ阪神タイガースだ。
 そんなとき、興味深い本がダイヤモンド社より刊行された。『虎とバット 阪神タイガースの社会人類学』である。アメリカの名門、イェール大学のウィリアム・W・ケリー教授が、阪神タイガースと大阪の絆について解読した「研究書」である。とはいえ非常にわかりやすい語り口で記されており、大変面白く読める。綿密なフィールドワークを重ねて書かれた作品のため、誤解や偏見もほとんどない。
 本書のテーマはズバリ、「なぜ阪神タイガースは、(それほど強くないのに)これほど愛されているのか?」である。ファン自身も自問自答したことがあるであろうこの難問に、外国人研究者はどのように立ち向かったのか? 本書の抜粋を3回に分けて紹介する。

阪神を覆う“二番手のコンプレックス”

プロ野球の在り方を変えた
V9ジャイアンツ

 1965年シーズンのプロ野球は、大阪勢対決となった日本シリーズが東京オリンピックに“食われた”わずか数ヵ月後に開幕し、そしてなんの偶然か、読売ジャイアンツの前人未踏の快進撃はこの年から始まった。ジャイアンツはこのシーズンを皮切りに、9年連続でセ・リーグと日本シリーズを制する。65年から73年までのいわゆるV9ジャイアンツは、永遠の“全国区”のチームとなり、プロ野球の在り方を根本から変えていった。

 もちろん、彼らは73年の最後の連覇まではV9ではなかったわけだが、60年代後半から70年代初頭に至るなかで、一年また一年と無敵の巨人軍のイメージは増大していった。V9の偉業の要因はいくつもある。まず、長嶋茂雄と王貞治という歴代最高級のスターコンビの存在だ。長嶋は1957年にその年一番の大学生との触れ込みでジャイアンツに入団し、王も翌年、高校ナンバーワン打者として続いた。二人ともプロの水になじむのに数年を要したが、60年代初頭には“ON砲”はジャイアンツの中軸になっていた。V9時代のジャイアンツの公式戦1192試合のうち、ONが揃って欠場したのはわずか60試合。9年間で二人は合わせて651本塁打、つまりシーズン平均で70本塁打を放った。打点は合計2700以上で、一シーズンあたりでは二人で300打点、一試合平均は約3打点を記録している。9年間のほぼすべての試合で、ONのどちらか、あるいは両方がチームの主役となり、メディアと観客の注目を集め続けた。

 第二の要因が、選手時代に“打撃の神様”として知られた川上監督だ。監督としては“管理野球”と呼ばれた上意下達式の指導法で有名になり、選手には鉄の規律と過酷な練習、指示への絶対遵守を求め(少なくとも求めて見せ)、保守的な戦い方を採用した。また、外国人助っ人には頼らずオール日本人で戦う方針を宣言し、就任初期に日系ハワイ人のウォーリー与那嶺を構想外とした。与那嶺は戦後初のアメリカ人プロ野球選手で、50年代には有数の名選手だったが、五九年末に放出された。

 ON砲と管理野球、オール日本人といったV9ジャイアンツのオーラとイメージは、実質的にジャイアンツ版サムライ野球のブランドとなり、全国ネットのテレビとラジオ、一般紙とスポーツ紙、漫画などをフル活用して試合を全国に届ける読売メディア帝国によって強化され、浸透していった。東京を拠点とする一つの企業グループを代表するチームでありながら、ジャイアンツはこの時期に全国規模のファン基盤を本格的に確立し、象徴的な“日本のチーム”として売り出されていった。

 スポーツアナリストの中には、常勝軍団の登場はスポーツそのものの本質(そして利益率)を損なうと主張する者がいる。スポーツには戦力の均衡を維持する手段と、勝者が入れ替わる可能性、そして試合とシーズンの結果が最後までわからないサスペンスが必要だという考え方だ。しかし、V9ジャイアンツが日本中を虜にした事実は、その逆を指し示している。まだ安全というものが貴重だった戦後間もない時期の日本人に、V9ジャイアンツは常勝の安心感をもたらした。日本は第二次大戦で完全敗北を喫し、国中が荒廃し、50年代には復興の見通しも不透明で、その感覚は60年代にもまだ生々しく残っていた。わたしは70年代に、東京から離れた日本の田舎で暮らしたことがあるが、その時期に農家を営む一家と一緒にテレビでジャイアンツ戦を観たことをいまでも覚えている。そのとき一家がよく口にしたのが、ジャイアンツ戦は観ていて楽しい、予想どおりの結果になって「安心した」という言葉だった。安心とはほど遠い状況で育った世代に向けて、ジャイアンツは確実な安定と成功を提供した。1970年代から80年代になって常勝でなくなると、負けている夜には一家の主がテレビのスイッチを切り、それ以上試合を観るのをやめることがたびたびあった。