“日本のチーム”対“関西のチーム”
企業式は球団だけでなくリーグにも浸透していった。オーナー会議に従属する存在としてのコミッショナーは以前から存在したが、ドラフト制度が始まった1965年にはじめて移籍の仕組みと契約の条件が制度化された。リーグが“外国人選手”という分類をつくり、“一般選手”と区別されるようになったのが70年代だった。そして、こうした変更は各チームの戦力を均し、運営を標準化することにはつながらなかった。ジャイアンツがプロ野球改革の成功例となる一方で、他球団、特にパ・リーグは盛大に煽りを食った。
ジャイアンツの快進撃によって、パ・リーグの人気は急激に落ち込んだ。テレビでの露出も、視聴者も、観客もない以上、スポーツ紙の関心も薄れるばかりだった。セ・リーグ最下位のチームのほうが、パ・リーグの優勝チームより収入が多いと言われた。南海とともに50年代のパを支配した西鉄ライオンズが、1969~70年にかけて悪名高い八百長疑惑、いわゆる“黒い霧”事件を起こしたことも、チームとリーグのイメージを穢し、ライオンズは70年代に何度も売却されて関東に移った。
70年代後半には、関西を代表するチームで、阪神電鉄よりもはるかに巨大な親会社を持つ南海ホークスが、80年代後半には阪急ブレーブスが売却された。ホークスがライオンズに替わってさらに西の福岡へ移転した一方で、当時のオリエント・リース社が購入したブレーブスは、オリックス・ブルーウェーブと名前を変えて神戸市郊外に本拠地を移した。その後わたしが調査のため関西入りしたときには、オリックスと近鉄バファローズがパ・リーグに所属していた。
1979年にライオンズを引き取った関東の小売り、鉄道大手の西武グループは、チームに積極的に投資すると、埼玉県内に新スタジアムを建設し、革新的な商業戦略を駆使して新たなファン層を開拓した。試みはすぐ成功につながり、ライオンズは82年からパ・リーグを完全に支配して、98年までの17年間でリーグ優勝13回、日本一を8回を達成した。それでもパ・リーグと各球団の人気、収益力を回復させるには至らず、九六年にはイチローらスター選手を擁するブルーウェーブがライオンズの覇権に挑戦していたが、グリーンスタジアムの客の入りはそこそこで、テレビ中継はほとんどなく、イチローでさえもメディアの関心はそこまで高くなかった。
そして、ジャイアンツ王朝の成立と東京への集中、大企業モデルの権威の確立という、60年代の変化に最も大きく影響されたのが阪神タイガースだった。研究者の井上章一や橘川武郎が指摘するように、50年代から60年代にかけて、関西の新テレビ局(毎日放送と朝日放送、関西テレビ放送、サンテレビなど)はほぼパ・リーグの球団と試合だけを追っていたのが、ジャイアンツのV9が始まるとそれをやめ、タイガースに関心を示すようになった。セ・リーグ各球団の観客数はジャイアンツ戦が最も多く、放映権料は高かったが視聴率は最高だった。同様の傾向は関西のスポーツ紙にも言えた。
二番手のコンプレックスというテーマと、球団への関心の上昇の点から見て、関西が拠点だったことはタイガースにとって祝福でもあり、呪いでもあった。野球とまったく関係ない球団の弱みや内部の小競り合いがスポーツメディアで事細かくメロドラマ的に語られる状況は、親会社、つまり安全で効率的な交通網の運営を旨とする私鉄をとりわけ神経質にさせた。それゆえ阪神電鉄は球団の細部にまで口を出すようになり、それがチーム成績をさらに悪化させた。
それにもかかわらず、いや、だからこそ国民は、ジャイアンツとタイガースの圧倒的な戦力差、そして二つの世界の対照性に目を向けた。タイガースの親会社は相も変わらず小さな私鉄なのに対し、読売は世界有数のメディア複合企業であること。読売がジャイアンツのイメージを入念に築きあげているのに対し、阪神が関西メディアの餌食になっていること。読売がファンクラブを後援してファン行動を管理しているのに対し、日本最大の規模を誇るタイガースの応援団は好き勝手に振る舞っていること。リソースの潤沢なジャイアンツが選手をどんどん獲ってこられるのに対し、資金とリーグへの影響力に乏しいタイガースは最高の新人を獲得できず、ルールをねじ曲げたりもできないこと。こうしたさまざまな要因が積み重なって、ジャイアンツとタイガースのライバル関係は“日本のチーム”対“関西のチーム”の関係に進化していった。
それゆえ、甲子園で年に約15回(また同じ回数だけ東京で)、野球のプレイとなって表れる両者のライバル関係は、単に東京と大阪の代理戦争というだけでなく、日本の一番手と二番手との争いでもあった。もっと言えば日本の中心と地方との戦いであり、タイガースの立場は、それまでの数十年における日本の政治、経済情勢の変遷を思い起こさせるものだった。ずっと変わらない甲子園に対して、ジャイアンツがバブル最盛期の80年代に後楽園球場から“ビッグエッグ”こと東京ドームに本拠地を移したことも、両者の関係を端的に映していた。
つまりタイガースは70年代初頭から(わたしの調査期間である)90年代をへてその後に至るまで、グラウンド上でも、物語上でもジャイアンツの最大のライバルであり、関西スポーツ界の希望の象徴だったのだ。