プロ野球のペナントレースは中盤戦に突入。セ・リーグは巨人と広島が首位を争うが、意外にも頑張っているのが、昨年最下位に沈んだ阪神タイガースだ。
 そんなとき、興味深い本がダイヤモンド社より刊行された。『虎とバット 阪神タイガースの社会人類学』である。アメリカの名門、イェール大学のウィリアム・W・ケリー教授が、阪神タイガースと大阪の絆について解読した「研究書」である。とはいえ非常にわかりやすい語り口で記されており、大変面白く読める。綿密なフィールドワークを重ねて書かれた作品のため、誤解や偏見もほとんどない。
 本書のテーマはズバリ、「なぜ阪神タイガースは、(それほど強くないのに)これほど愛されているのか?」である。ファン自身も自問自答したことがあるであろうこの難問に、外国人研究者はどのように立ち向かったのか? 本書の抜粋を3回に分けて紹介する。

猛虎応援団のその先

 甲子園のライトスタンドの住人は、タイガースのファン文化の中心だが、チームを応援する人間はスタジアムの外、それこそ関西の隅々からその先にまで広がっていて、その様子はボストンのフェンウェイ・パークを首都に、ニューイングランド全域に住人が散らばる“レッドソックス・ネイション”によく似ている。もちろん、中心たる外野席の応援団は特別だ。人数で勝る内野席は、音量も統一感も外野にはかなわない。そしてもちろん、いつもチームを追いかけるファンでも、スタジアムを訪れるのはほんの一部でしかない。ほとんどの自称ファンは甲子園をめったに訪れず、テレビやラジオ、あるいは出勤や帰宅の合間に読む新聞など、それぞれの手段でチームを追う。

 メディア(特にテレビとスポーツ紙)の登場によって、観客の行動と在り方との乖離が生じ、前者はスペクタクルにつながるが、後者は間接的な傍観者しか生み出さないとする説は数多い。特にテレビは“地元”のアイデンティティーを崩壊させ、ファンが応援するチームを「ころころ変える」要因をつくったと批判される。万能に近いメディアの登場で、ファン文化が大きく損なわれたという主張だ。

 わたしとしては、その意見には賛同しかねる。確かに、仕事から帰った夜七時半、居間で冷たいビールを片手にごろごろしながらテレビでタイガースを観る一家の主人、あるいは満員電車に揺られながら、通勤途中に好きなスポーツ紙で応援しているチームの前夜の試合のニュースを読みふける会社員のファン体験は、甲子園に毎日駆けつける浪虎会のメンバーの体験とはまるで別ものだ。しかしそれは、テレビや紙媒体を通じた体験が、生観戦の濃密で、直接的で、自発的な体験に劣るという意味ではなく、メディアを通じた体験は性質が異なるという意味に近い。

 アンドルー・ペインターが日本のバラエティー番組について述べたように、テレビ観戦からも、生観戦に似た「準濃密な」体験は生まれる。テレビなら投手の真うしろから試合を観られるし、複数のカメラアングルやリプレイ映像も楽しめる。解説者のコメントも独り占めできる。スポーツ紙のドラマティックな記事なら、色鮮やかな写真、印象的なかたちと大きさの文字、各種エピソード、スタッツ、サイドストーリーなど、ニュースというよりは漫画に近い体験が味わえる。