報道では、卒業生の声も数多く紹介されている。大学に進学すると、大学教育の基盤となる通常の高校教育を受けてきたクラスメートたちとの落差に直面することになる。それでも、大学に入ってしまった以上は、やるしかない。そのプレッシャー、そして出身高校の評判がもたらすハンデを引き受けるのは、卒業生本人だ。大学を中退しても、踏みとどまっても、苦闘は続く。

 米国の大学入試は、本当に日本が模範とすべきものなのだろうか。米国の大学入試は「学力のみならず総合的に人物を評価する」ものと伝えられているが、実際はどうだろうか。日本の現在までの「成績一発勝負」は、むしろ日本の文化と社会の中では、一定のフェアネスを担保する装置として機能してきたのではないだろうか。

 十分な検討がされているとは思えない状況のまま、日本の大学入試改革は実現に向かいつつある。

教育問題は不透明な
社会課題を解決するカギ

 私から見ると、日本が米国を見習うべき点は、課題に関する世の中の理解にある。IRE19でのパネルセッションの冒頭で、教育を報道することの意義について、パネリストの1人から次のような発言があった。

「教育がなぜ大事なのかって? 経済の基盤だし、環境などあらゆる問題に関連するし。それに、多くの人が読んでくれるし」

 会場の参加者たちは爆笑した。そのパネリストはたぶんベナー氏ではないかと思うが、姿は見えなかった。

 米国の読者たちにとっての教育問題とは、将来にわたる経済の基盤であり、不透明な今後の社会課題を解決するためのカギである。あらゆるレベルで貧困を解消するために、最も重要で確実な手段でもある。そもそも第一義的に、教育を受ける人々、特に子どもたち1人1人が幸せな人生を生きていく土台を作ることであり、子どもの人権の保障である。そのことへの共通理解があるから、教育に関する報道に高い関心が集まる。