連載第56回でボン大学の主な弟子たちを紹介したが、その中に2人の日本人がいた。中山伊知郎(1898-1980)と東畑精一(1899-1983)である。シュンペーターと日本人の出会いは、1924年から1925年にかけて、東京帝国大学経済学部教授会の命を受けて、留学中の河合栄治郎が東大招聘交渉にウィーンへ赴いたときが初めてであろう。

 1925年夏、シュンペーターは東大の要請を断わり、10月にボン大学教授へ就任した経緯は連載第50回第51回でくわしく書いたとおりである。

 それから2年後、中山伊知郎がボン大学へ留学することになる。中山の年譜(★注1)によると、1923年4月、卒業と同時に東京商科大学助手に採用され、文部省から1927年2月に「統計学及び経済学研究の為」ドイツ、イタリア、アメリカへの留学を命じられる。

 中山はボン大学のシュンペーターに師事することを決めていた。2月にベルリンへ到着。2月から9月までベルリンで過ごす。「友人と遊んでい」(★注2)たそうだが、当時は帝国大学の助手に採用されると、数年後に欧米へ留学し、帰国後に助教授へ引き上げられることになっていた。東京商科大学も同様である。

 留学といっても当地の大学で学位を取得するわけではなく、本を読み、ゼミナールに参加し、語学を習得し、見聞を広め、人脈を作ることが目的である。すでに国立大学教官なので、留学というより在外研究だ。遊学に近い。古き良き時代である。

 中山はベルリン滞在を1927年9月で切り上げ、ボンへ行き、シュンペーター教授を訪ねる。面談すると、まずこう訊ねられたそうだ。

 「『今まで何を読んだか』と聞かれるままに、正直に3冊の本をあげた。教授はおどろいて『そういう指導をしたのはだれか』と重ねて聞かれた。クールノーとゴッセンとワルラス、教授は、おそらく極東の一留学生の口からこの三人の名が出てくるとは予期していなかったのであろう。たいへんに喜んでくれた。」(★注3)

 中山は1898年、三重県宇治山田市(現在の伊勢市)に生まれると、県立第四中学(現在の宇治山田高校)から神戸高等商業学校予科(現在の神戸大学)を経て、1920年(大正9年)に東京商科大学(現在の一橋大学)へ入学した。当時の大学は3年制で、第2学年に上がると福田徳三(1874-1939)のゼミナールに入る。シュンペーターに話した3冊の本、つまり3人の経済学者とは、この福田に指示されたものだった。

「まったく同じ」だった
福田徳三とシュンペーターの発想

 福田徳三は、現在では忘れられた存在だが、その実力は抜きん出ていた。東京帝国大学からドイツへ留学した面々が見聞を広め、専門書を買い集めて読書していたのに対し、福田はドイツ語の論文で学位を得ている。