千葉精密には経営者がいない!

 早苗の胃に差し込むような痛みが走った。

 「最後に、これが一番クリティカルな問題ですが、千葉精密には経営者がいない!」

 「!?」

 アンダーソンの思いがけない一言に、早苗は言葉を失った。

 「営業も製造も一生懸命働いている。でも、バラバラに行動しており、組織の歯車が噛み合っていない。あなたのお父さんが亡くなられてから、誰も千葉精密の経営をしていない。だから、銀行から融資を断られて、今あなたはここにいるのではないのですか?」

 「経営をしていない……」

 「経営者不在の会社にいきなり直接投資はできません。ただし、千葉精密には技術がある。人材もいる。だから転換社債で投資して、一定期間、様子を見させてもらいます」

 「どれくらい様子を見て頂けるのでしょうか?」

 早苗に代わり、吉田が質問をした。アンダーソンは右手の人差し指を立てた。

 「1年です。この1年の間に、利益だけでなくキャッシュ・フローを改善してください。業績が改善すれば社債を株に転換して、直接投資に切り換えます。しかしそれができなければ……」

 今の千葉精密にとって、他に3億円の当てがあるわけではなく、結局ブラック・シップスからの転換社債の投資を受け入れることにした。

 アンダーソンにコミットした条件は、

 「経常利益2億円以上、営業キャッシュ・フロー5億円以上を達成すること」

 達成できた場合には、社債を株式に転換するので、お金を返す必要はない。もし達成できなかった場合の選択肢は2つだ。

 選択肢1 社債を償還してお金を引き上げる
 選択肢2 社債を株に転換する。ただし、経営者を交代し、抜本的な改革に着手する

 選択肢1の場合、お金を準備できなければ倒産の危機だ。
 選択肢2の場合、お金は返さなくていい代わりに、早苗は社長を退き、抜本的な改革という名のリストラが実施される……。

 早苗は会社に戻る気になれず、一人で歩いていた。いつしか雨が降り始めている。

 (経営者がいない……)

 アンダーソンに言われたフレーズが早苗の頭の中で繰り返し鳴り響いている。

 (だったら私は何なの? お父さんが亡くなって、何も分からないまま社長にされたのよ。たかが27歳の女の子が、年商50億円のメーカーの社長なんて無理なのよ! それに社内のみんなだって誰も私のことを社長だなんて思ってないじゃない! 会議だって参加しているだけ。稟議書にハンコをつくだけ……)

 気がつけば六本木交差点を通り過ぎ、飯倉片町交差点まで来ていた。

 (さむい……)

 降り注ぐ雨が早苗の体温を奪っていく。

 顔を上げると、ライトアップされた東京タワーが見えた。まだ小学生のころ、父親と東京タワーに遊びにきた記憶がよみがえり、とめどなく涙が溢れてきた。

 早苗は左手に着けた動かない腕時計を右手で強く握りしめた。

 (お父さん、私どうしたらいいの……)

 つづく

相馬裕晃(そうま・ひろあき)
監査法人アヴァンティア パートナー、公認会計士

1979年千葉県船橋市生まれ。
2004年に公認会計士試験合格後、㈱東京リーガルマインド(LEC)、太陽ASG 監査法人(現太陽有限責任監査法人)を経て、2008年に監査法人アヴァンティア設立時に入所。2016年にパートナーに就任し、現在に至る。
会計監査に加えて、経営体験型のセミナー(マネジメントゲーム、TOC)やファシリテーション型コンサルティングなど、会計+αのユニークなサービスを企画・立案し、顧客企業の経営改善やイノベーション支援に携わっている。年商500億円の製造業の営業キャッシュ・フローを1年間で50億円改善させるなど、社員のやる気を引き出して、成果(儲け)を出すことを得意としている。
著書に『事業性評価実践講座ーー銀行員のためのMQ会計×TOC』(中央経済社)がある。MQ会計を日本中に広めてビジネスの共通言語にする「会計維新」を使命として、公認会計士の仲間と「会援隊」を立ち上げ活動中。